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ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

私が補聴器を付けることをやめた理由 中編

 

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私が補聴器を付けることをやめた理由

前編の続きです。

 

tellyou.hateblo.jp

 

このように、先輩から「君は自分のことを障害者と思ってるの?」と言われ、それから色々と考えた。

 

そしてこれまでのことを振り返ってみた。

 

アイデンティティとは

アイデンティティとは、簡単に言えば「これが自分」というものを示す何かであり、例えばそれが物でも良いし、趣味でも良いし、自分の考え方や暮らし方でも良い。

一般的には「自分の考え方の軸」を示すことが多いようだが。

人を妬み、人を見下してきた自分

これをもとに、私のアイデンティティについて色々と考えてみた。

その時にまず考えたのは、「私のアイデンティティはどこにあったのか?」ということ。

それを探すために、今までの自分を色々と振り返ってみた。

 

ずっと抱いてきた劣等感

 

生まれた時から耳が聞こえない人生を送ってきたわけだけど、振り返ってみれば耳が聞こえないということは私にとっては劣等感の連続だったと思う。

 

例えば、前編にも書いたが、小学校時代は同級生に同じくきこえない人がいて、その人は発音がとてもうまかった。

なのでいつも、その発音がうまい同級生と自分を比べて惨めな気持ちになった。

 

なぜ私はみんなと違うんだろう・・・

もし発音がもっとうまければ友達と色々おしゃべりできるのに・・

 

こういう気持ちがいつも常にあった。

 

劣等感から他人を見下すようになった

 

そして高校に進んだとき。

高校の時は私自身が「健常者と同じ高校に通っている!」という変なプライドがあった。

そのため、聾学校に通っている人を見下したりもしていた。

例えば聾学校の生徒を見かけると目をそらしたり隠れたり・・・

無意識的に、聾学校を低く見ていたのだろう。

 

 または、聾学校の生徒から「どこに通ってるの?」と聞かれて高校の名前を答えた時に

「すごい!頭いいんだねー」と言われて「フフン」と偉そうにしたり・・

優越感を隠すことはしなかった。

 

この時、劣等感は差別や見下しを生むこともあるんだな、と漠然と感じていた。

でもこういう行動をやめることはなかった。 

 

聞こえる人を演じていた自分

もう一つ、特に多かったのが、「聞こえる人のように演じる」ということ。

私はそもそも全く聞こえない。なので、人との会話は筆談または口話(大きく口を開けてもらい、その口を見て読み取ること)が必要だった。

 

そのため、補聴器をつけて耳で聞いて会話ができる人(いわゆる軽い難聴者)がカッコよく見えた。

やはりこの社会において声を出して人と話すということはとてもスムーズだったから出来るならその方がいい、という気持ちもありそれで憧れが強かったのだろう。

 

レストランで聞こえる人のふり

そんなある日、知らないろう者と初めて会ってレストランに行った。

そしてオーダーをし、店員さんに注文をした。

その時に私は自分のことをカッコよく見せようと思い、わざと補聴器をつけている耳を店員さんの方に向けて耳で聞いてるふりをした。

そして声は出さずに口パクで「ハイ分かりました」と言った。

 

 電話ができるふり

また、ある時は皆の前で電話ができるフリもしたことがあった。

当時、私は母親に対してだけ、電話をかけることができた。

(でも一方的にかけて一方的に話して切るだけ)

その時も知らないろう者たちがいる時にわざと目の前で公衆電話から家にいる母に電話をかけ、しゃべっているふりをしていた。

 

この2つのどちらも、その時にその場にいたろう者から「すごーい、聞こえるんだねー、話もできるんだね!」と言われた。

私は「それほどでもないよー」と言ったけど、その時だけ優越感に浸ることができた。

本当は違うのに・・・

 

振り返ってみて、分かったこと

・・・と、今までの色々なことを振り返ってみて分かったことがある。

 

私はそれほど、聴者に憧れていて、聴者みたいになりたかったのだということ。

そして、「耳が聞こえない」ということが私にとってマイナスになっていて、劣等感に繋がっていた、ということ。

そしてその劣等感があったがゆえに「普通の学校に通っている自分は凄いのだ」「ろう学校に通ってる人は恥ずかしい」など・・そう思うようになっていた。

 

 私は、それほどまでに「耳が聞こえない」という自分に自信がなかったのだ。

 

どうしてそこまで聴者みたいになりたかったのか

では、どうしてそこまでして聴者みたいになりたかったのか?

答えは簡単である。

 

聞こえる人みたいになれと言われ育ってきたから

小さいころから、

 

「聞こえる人みたいにならないとだめ」

「発音がうまくならないと大変だよ」

「しゃべれないと友達もできない」

「聞こえる人にかわいがってもらえて、助けてもらえる人になりなさい」

 

・・ということを暗示のように常に先生など周りから言われ育ってきた。

親や祖父母は幸い、そこまでは言ってこなかったが、それでも、発音に対しては厳しくチェックしていたし、常に「聞こえる友達はいるのか」と心配してきていた。

 

そういう環境で育つと、どうしても「聞こえる人が上で、聞こえない人は下なのだ」とおのずと思うようになってしまう

(そう思わない人もいるかもしれないが)

 

私もそうだった。

そのため、私の価値観の中に「聞こえる人が上」「聞こえる人が全て」「発音がうまくないと生きていけない」など。。そういったことが刷り込まれてしまっていた。

 

そのため、聞こえる人の真似をしたり、聾学校の人を見下したり、という自分が出来てしまったのである。

 

 社会全体が聞こえる人優位の社会だから

例えば何かをするにも電話、テレビも字幕がない、というような社会だとやはり「聞こえない=障害」ということになってしまう。

 

本来、聞こえないということは単なる身体的欠陥なだけであって、社会がそれをカバーできる環境(例えばテレビなら全ての番組に100%ついているなど)があれば、聞こえないことは障害だと感じることが少なくなる。

 

しかし、今の社会はまだまだそうではないため、聞こえないということはそれだけでも多くの壁を生み出す。

 

つまり、「聞こえないという身体的欠陥=障害」なのではなくて「社会が障害を作り出している」ということ。

そして、聞こえないという身体的欠陥のある人に対し、聞こえないということで大変な思いをさせているのは他でもないこの社会なのだ、ということ。

  

話がそれてしまったが、まとめると、今の日本は「社会自体が障害を作り出してしまっている」のに、人は障害者に対し身体的な欠陥だけを見て「そこに障害がある」と思ってしまい、社会が作り出した壁の改善をしない。ということ。

 

そのため、周りの人も「聞こえる方が楽」と思ってしまい、それで「聞こえる人のようになりなさい」と言ってしまうのだろう。

 

このことからもまとめると、私自身のこれまでのアイデンティティは「聞こえない」ということに左右され、また、社会にも左右されていたことが分かった。

 

そして気づいた。

先輩が言っていたのはそういうことだったのかもしれない・・・と。

 

補聴器を外すのはそういう自分とサヨナラするため

そして私は、そういう自分と決別したいと思った。

聞こえないということに自分が振り回されている。

聞こえる人みたいになりたいと思っていた自分とサヨナラしたい。

そして・・・同じ聞こえない立場の人たちを馬鹿にしたり見下したりしていた自分と決別したい。

 

そして今後は聞こえない自分を受け入れ、聞こえない人として堂々と生きていきたい。

 

そのためには、何をしたらいいだろうか・・・

 

そう思った私、「そうだ、補聴器を外してみよう」と思った。