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ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

私が補聴器を付けることをやめた理由 前編

 

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 私は生まれつき、耳が聞こえない。

どのくらい聞こえないか?と言うと、補聴器をつけない状態だと全く聞こえない。

いわゆる重度難聴、ろう者である。

たまに花火の音がわずかに聞こえるぐらい。それも、花火大会で前列に座った時のみ。

後列だと全く聞こえない。

または、誰かが耳に口を近づけて叫ぶと聞こえる、ぐらいかな。

ただしその「聞こえる」も色々あり、私の場合は「音が聞こえるな~」というぐらいでその音が何の音なのかは分からない。

 

でも、とりあえず補聴器を付ければ音は聞こえるし、また、医学的にも「残存聴力を生かすためには常に補聴器を付けていてください」とか医者から言われることが多い状態でなぜ、私は補聴器を付けないのか?を書いていきたい。

 

私が補聴器を付けることをやめた理由

もともと私は、実は20歳ごろまでは補聴器をつけていた。それも両耳、である。

 

補聴器を付けることの恩恵

私のような重度難聴が補聴器を付ける、ということは意味があるのか?と思う人も多いと思う。

しかし、少なからず意味はある。

 

電話が来たのが分かる

例えば「どこかから音がする」ということは分かるし、家にいても電話が鳴ってる音は分かる。

 

電話の音はいつも一定なので、「この音は電話の音だ」ということを覚えてしまえば、その後に電話の音を聞いても「あ、電話の音だ」と分かる。

(ただし、テレビの音も出ている状態で電話が鳴っている場合は分からないことも多い。

また、音がどこから聞こえてるのか、ということも分からない)

 

救急車やパトカーなどの音も分かる

上記と同じく、家にいても救急車やパトカーなど緊急車両の音がした場合は分かる。

 

これも、先ほどと同じように緊急車両の音はいつも同じだからというのが大きい。

(遠くから来る場合は難しい。

分かるのは、家の前を通ったなどすぐ近くを走った場合のみ。

ただし、テレビの音も出ているなど騒がしい状態だと分からないことが多い)

 

この2つの恩恵は確かにあった。

ただし、これは静かな場所にいる時のみだったように思う。

なぜなら、補聴器は音をなんでも拾ってしまうため、外を歩くと車の音、周りの人の話し声、犬の鳴き声など・・とにかくいろいろな音が全て一気に耳に入ってくるからである。

更にそれを聞き分けることが難しい。

健常者はそれができるが、聴覚障害があるとそれが困難になる。

 

補聴器をやめた理由

そしてある日、私は補聴器をつけないことを決めた。

これは単に、「意味がないから」「うるさいから」ではない。

むしろ、アイデンティティの問題によるものだった。

 

私のアイデンティティ

ここで、私のアイデンティティについて書いていきたい。 

学生の時の私のアイデンティティ

補聴器をつけていた頃は聞こえる人たちに囲まれて学校に通い授業を受けていた。

この時は聞こえる人たちに囲まれていることで否が応でも「私は聞こえないのだ」という現実を目の当たりにさせられた。

例えば聴者同士だと声だけで簡単に会話ができる。

でも私から聴者に声で話しかけることは難しい、など。

 

また、同級生に耳が聞こえない人もいた。

この同級生は私と違って発音がうまかった。

そしてやはり発音が下手な人より上手い人の方に人は流れていくという現実を目の当たりにしたこともある。

 

例えば私が友達と話している時。私は発音が下手だったので、一生懸命話してもなかなか通じない。

なので手のひらに文字を書いたりなどして会話には時間がかかる。

しかし、発音がうまい同級生が来ると、私と話していた友達はすぐにその同級生のところに行っておしゃべりを始めてしまったなど・・

一人取り残されて惨めな思いをしたこともある。

それで発音が上手い同級生への妬みもあった。

 

なので、この頃の私は

「聞こえる人みたいになりたい」

「発音が上手かったら良かったのに」

という、まさに「聞こえる人への憧れ」が強かったように思う。

 

つまり、この頃の私のアイデンティティは「耳が聞こえる人と自分を比較して成り立っていたもの」であり、

自分に自信が持てない

劣等感

妬み

この3つに縛られていたように思う。

 

「君は自分のことを障害者と思ってるの?」

そして短大に入学した。

その頃、同じ耳が聞こえない先輩から声をかけていただき、ある団体に入った。

その団体は、今で言う「近畿ろう学生懇談会」と言い、短大や大学、専門学校に通う聴覚障害学生を中心とした団体だった。

この団体は他にも手話を学ぶ聞こえる学生も多く入っており、手話で交流などが行われていた。

 

この団体である先輩と出会った。

そしてある日。

何がきっかけかは忘れたが、この先輩から私は忘れられない一言を言われた。

 

「君は自分のことを障害者と思ってるの?」

 

 確かこの時は、私の今までの経験についてお話ししていたのかな。

その時に言われた言葉だったと思う。

 

私は「えっ」と聞き返した。

するとその先輩は続いてこう言った。

 

「障害者、耳が聞こえないという時点ではみんな障害者なのは確か。

だけど、受け止め方の問題なんだよね。

君の話を聞いてると、君は自分のことを「耳が聞こえなくてかわいそうな障害者」だと思ってるように見える。

それは違うんだよ。

あなたは耳が聞こえない、だけどそれはかわいそうでもない、恥ずかしいことでもない。

耳が聞こえないという自分に誇りを持って生きるべきだ

 

私は押し黙ってしまった。

そして、本当にその通りだと思った。

 

私の中にある劣等感や妬みなど様々な思い、そして自分はかわいそうなのだと自分で自分を憐れんでいたこと・・・

それを見事に見抜かれたということである。

 

そしてそれから私は色々考えた。(続く)