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ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

私が補聴器を付けることをやめた理由 後編

 

 

私にとっての補聴器は何だったのか

やっと最後、この記事は以下の記事の後編です。

思ったよりも長くなってすみません。

tellyou.hateblo.jp

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・・・とこのように、私は「今までの自分」を振り返り、改めて自分のアイデンティティを見直した。

そしてこれからどう生きるべきか?考えた時に、「補聴器をやめよう」と思ったという流れがある。

ここからは、補聴器をやめてからのことを書いていきます。

 

補聴器は「聞こえる人のふりができる道具」だった

私にとって補聴器とは何だったのか。

それを今からまとめていく。

 

自分の自尊心を満たすための道具だった

補聴器をつけて聞こえる、会話ができるフリをして軽い難聴者みたいに振舞っていれば、聴者にはなれなくても自尊心を保つことができた。

つまり、私にとっては「補聴器は聞こえる人(軽い難聴者)のふりができる道具」だったことに私は気づいた。

本当は補聴器をつけても「音が入ってくるだけ」で「その音が何の音かも分からない」のに、である。

 

人を見下していることにもなっていた

そしてもう一つ気づいたことがある。

補聴器を付けて聞こえる人のふりをして優越感に浸るということは、同時に同じきこえない人よりも優位に立ちたいという気持ちを持っていることに繋がる。

 

そして、みんなから「聞こえるんだね~、すごーい」と言われることで自尊心を保っていたということは、私自身も聞こえないのに他の聞こえない人たちを見下している、馬鹿にしていることに繋がる・・・

 

私はあなたたちとは違うのよ、私は聞こえる人に近い位置にいるのよ!みたいな。

 

それに気づいたとき、私はどれだけ、「聞こえる人の方が偉い」「聞こえる人の方が上」という価値観に縛られて生きてきたのだろうか、、と思った。

 

 そしてそれによって、同じ立場の聞こえない人を見下したり馬鹿にしたりするのは情けないし悲しいことだ、と思った。

 

そして、まずは

 

「自分らしく生きるため」

「聞こえないことを受け入れるため」

「聞こえない人として生きるため」

 

に補聴器をやめようと決心した。

それと同時に、同じ聞こえない人たちと向き合おう、ちゃんと自分を認めて聞こえないことを受け入れてプラス方向に考えていこう、と思った。

 

補聴器をやめてから起こった様々なこと

そしてだいたい20歳ごろに補聴器をやめたわけであるが・・・

実は思ったよりも困らなかったように思う。

 

外出時

「外出時は補聴器がないと怖いのでは?」という人は多いと思う。

確かに、外出時に補聴器がないと車の音などが分からなくなり危ないかもしれない。

 

でも私の場合は、もともと補聴器があっても外出時は車の音や「どこから車が来るのか」などといったことを判別できなかったため、外出時は常にきょろきょろしたり周りに気を配ったりしていた。

それが身についていたため、補聴器を外してもあまり関係なかった。

そのため、そこまで「怖い」「不安」だという気持ちはなかった。

 

音に頼らない生き方、補聴器に頼らない生き方・・・

これこそが本当の意味での「耳が聞こえない人としての生き方」だと私は感じていたし、また、耳が聞こえないなりの方法があるということもある、ということは昔からなんとなく分かっていたので、むしろこれで良かったのだ、と思った。

 

家庭内

補聴器を付けるのをやめた時、親にも一応お話はしたと思う。

「なんで?」と聞かれたが、その時は「つけても意味がないから」という風に話したように思う。

そこまでもめた覚えがないから、多分親もすんなりと納得してくれたのだろう。(不安はあったかもしれないが)

 

ただ、今思うと、補聴器は決して安い買い物ではないのに、私のために生まれた時から補聴器を購入してくれて、しかも、壊れたら買い替えたりもしてくれて・・

結構お金がかかったと思うのに、それを「つけても意味がない」という説明で済まされると親としては悲しかったかもしれない。

なので、もう少しきちんと説明したら良かったかな、と今は思う。

 

それは置いといて。

家庭内では、今までは親が私を呼ぶときは声で呼んでいた。

それもやめてもらったため、私が2階にいる時はわざわざ2階まで上がってもらうはめになった。

親にとっては凄く面倒だったかもしれないが、何も言わず合わせてくれたのでそれは感謝している。

 

心理的な面 

もちろん、それまでは毎日聞いていた騒音がばたりとなくなったわけだから、落ち着かない部分もあったかもしれない。

だが、それよりもまず、「ラクになった」という気持ちの方が大きかった。

 

おそらく、「これでいいんだ」「これで自分らしく生きていけるんだ」という気持ちの方が大きかったからかもしれない。

 

補聴器をやめて気づいた変化

そして今は、補聴器をやめてから数十年になる。

それからの変化を振り返ってみたい。

 

「聞こえない自分」と向き合えた 

これまでは、「人の話が分からない」などということから「自分は聞こえないのだ」という事実は分かっていた。

それでも、「聞こえる人のようになりたい」と思い聞こえる人のフリをしたりということがあった。

ということは、私は身体的には「聞こえない」ということは分かっていても、心の中では拒否していたのだ。

 

でも、補聴器を外して「本当に聞こえない環境に身を置いて、聞こえない人として生きていく!」と決めてからは、不思議と「聞こえる人のようになりたい」とは思わなくなったし、聞こえる人のふりをすることも少しずつなくなっていった。

 

これは聞こえる人へのあこがれ、依存から少しずつ離れていく自分を味わえたひと時だった。

 

手話と向き合うことができた

これまでも聞こえない友達がいたり様々な機会があったりして手話に触れる機会はあったが、それでも私は手話を使うことが恥ずかしい気持ちもあった。

実際、聾学校に通っている友達を道で見かけたら逃げたりすることもあった。

 

でも、補聴器をやめてからはそういうこともなくなり、手話と向き合うことができるようになった。

そして手話が楽しい!と思えるようになり、手話を使う自分が嬉しくなった。

 

音に頼らない方法を身につけた

もともと補聴器を付けてもあまり意味がなかったこともあり、音に頼らない生活はしていた。

しかし、補聴器を外してからはそれがより顕著になった。

 

例えば道を歩いている時は車が走っていない道でも必ず端っこを歩く、などである。

 

これは聴こえる人にもお勧めだと思う。

なぜなら、もし音に頼った生活をしていると、いざ音が壊れて聞こえなくなった時に戸惑うことも多いだろう。

例えばそのいい例がプリウスという車である。

プリウスは走っている時音がほとんど聞こえないらしい。それで急に後ろから走ってこられてビックリした!という声も多いと聞く。

でもそういう時でも、音に頼らない生活をしていると、最初から端っこを歩いたりして身を守ることができる。

そのため、いざ、プリウスのような車が走ってきても慌てずに済む。

 

また他にも、例えばたまたま洗濯機の音が出なかった時でも最初から「洗濯機を回してから40分後に洗濯機の様子を見に行く」ということを心がけていれば、「あれ?まだ洗濯機終わってないのかな?」と思って慌てずに済む。

 

とかくこの世には音があふれている。

だからこそ、音がなくなると困る人はとても多い。

でもそこに頼らない方法を身につけていれば、いざ、どんなことが起こっても慌てることはないだろう。

 

聞こえない人として生きる方法を身につけた

先ほども書いたが、「音に頼らない生活をする」ことも「きこえない人として生きる方法」の1つである。

また他には、「筆談する」ということも覚えた。

 

実は、それまでは「筆談」に強い抵抗があった。

筆談するということは、発音が出来ない自分を認めること、また、自分は聞こえないのだということを認めることにも繋がるため、できる限りはしたくなかったのである。

また、うまく注文できるか自信がなかったというのもあり、カフェなどに一人で入ったことがなかった。

 

でも、聞こえない人として生きる、と決めてからは筆談をすることを受け入れることができた

 

そして、カフェに入って注文する時は筆談、また、道を歩いていて分からないことがあれば近くを歩いている人に筆談で道を聞く、など・・・

 

そういったことができるようになり、世界が広がった。

 

 

「聞こえない」という事実を受け入れるということ

「聞こえない」という事実を受け入れること。

それは、

「私は聞こえない・・・恥ずかしい・・・きこえる人みたいになりたい・・」

ということではなく、

「私は聞こえない、でもそれでいいのだ!それが私なのだ」

と思えるようになること。

これは、補聴器を外してからできたことでもある。

 

そして、私は聞こえない自分に対して前向きになれた。

私は聞こえない。

私は手話と筆談で生きる。

それでいいのだ。

 

そして、これが、きっとあの先輩が一番伝えたかったことなんだろうな、と思った。

 

そしてあれから数十年。

今も補聴器は付けていません。

でも、快適です。

まとめ

私にとって補聴器というのは、「聞こえる人へのあこがれ」であり、それ自体がアイデンティティとなってしまっていた。

 

でも、他の人の中には、補聴器を付けても聞こえないという状態であっても「補聴器をつけることで自分は耳が聞こえません、というのを周りにPRできる」という理由で付ける人もいる。

 

また、「補聴器を付けても聞こえないけど、補聴器は大事だからつけておきたい」という人もいる。

皆が皆、補聴器を付けている=聞こえる人に憧れがある、というわけではない。

 

なので、補聴器を付けている人のアイデンティティも大事にしたいと私は思っている。

 

しかし、これだけはやめてほしいと思うことがある。

 

「補聴器を付けると、後ろから呼ぶときに楽だから付けてほしい」

「補聴器があれば少しは会話が楽になるから、付けてほしい」

 

というような「聞こえる人たちの勝手な都合」で本人に補聴器を付けることを強制する人たちも多い。

本人も承知していればいいのだが、本人が嫌がっているのに自分の都合で補聴器を付けることを押し付けるのは、その人のアイデンティティを無視することになる

 

「聞こえない人が聞こえる人に合わせる」ことが当たり前なのではない。

そろそろ、聞こえる人が聞こえない人に合わせていくことも考えてほしいと思う。

 

そりゃあ、聞こえない人の方から聞こえる人に合わせる方が聞こえる人にとっては楽かもしれない。

筆談しなくてもいいし、手話も覚えなくていい、聞こえない人の方が頑張って口を読み取って補聴器を使って必死で話を聞いてくれればいい・・

 

でも、それは聞こえる人の勝手な都合であり、酷というものだということは、分かってほしいなと思います。