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ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

聞こえる夫に手話やろう者などへの考え方を聞いてみた


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聞こえる夫に色々と質問してみた

私は耳が聞こえない。夫は耳が聞こえる。

今回は色々と考えることがあったので、夫に色々と質問してみた。

その夫の答えをここにまとめておきたい。

 

夫にとっての「私」

まず、夫にとって、私は人生で初めて出会った「ろう者」。

もちろん、私と出会って初めて手話を「見た」。

そしてろう者の存在を知った。

 

それまでは「耳が聞こえない人がいるということは知っていたが、それはテレビの向こうの世界であり自分とは別世界の存在」と思っていたとのこと。

 

そして、決して交わることはない、と思って生きてきていたが、ほんの少しの偶然で私と出会い、そこから大きく人生が変わったと言う。

 

もちろん、私と出会ってから手話を覚えたわけであるが、

その時の夫にとって「手話」というのは「私と話すためのコミュニケーション手段」であったとのこと。

 

そしてそれは今も変わらない、と夫は言っている。

 

それはそれで構わないのだが、では、夫はろう者や手話についてどう考えているのか?気になり聞いてみた。

 

もし私が発音が出来ていたらどうなってた?

私は発音ができない。

そのため、というのはおかしな話だが、普段は手話と筆談で生活している。

(おかしな話、と書いたのは、手話は発音が出来ない人のためのものではないからです)

 

そこで、夫に聞く前に、「私自身がもし発音が出来ていたら・・?」を想像してみた。

でも、分からなかった。

 

手話は何のためのもの?

昔の私は

「発音が出来ないから手話を覚える」

「手話は発音が出来ない人のためのもの」

と思っていた。

 

でも今は違う。

 

発音が出来ていようが、できていなかろうが、それとは関係なく手話は手話であり、楽しいものである、と思っている。

 

実際、手話があればこのようなことが可能になる。

 

1:きこえない人同士コミュニケーションが取れる

2:聞こえる人も手話を覚えていれば会話がスムーズになる

3:通訳も手話通訳というものを利用して多くの情報を得ることができる

 

メリットだらけなのだ。

 

ではもしこれが

【発音が出来る人は手話は不要、できない人は手話必要】

という世界であればどうなっていたか?を考えてみた。

 

現実としては、「発音が出来ていても聞こえない」という人は多い。

(発音ができる=障害が軽い、と決まったわけではないから)

そういう人は喋れたとしても相手の話が分からない(分かりづらい)ままになっていただろう。

 

また同じきこえない人同士でも発音が出来る人と出来ない人とでコミュニケーションが取れないことになっていただろう。

 

なので、「発音ができる=聞こえる(障害が軽い)と決まったわけではない」ことも多いからこそ、一概に

「発音ができるから手話は不要」とは言えないのである。

 

でもこれが分かっていない人はまだまだ多い。

実際、発音が出来ているから聞こえてるんだ、と思ってしまう聴者はとても多い。

そしてそれによって困っているろう者難聴者も大変多いと聞く。

 

ただ、これはきっと、私が発音ができないからこそ考えることができた、ということで、

もし私が発音が出来ていたらここまで考えることはなかった・・かもしれないし、考えたかもしれない。

それは分からない。

 

・・・ということで、

自分でも分からないのに、夫に聞いてみるのもいかがなものか、と思ったが(笑)

とりあえず夫に聞いてみた。

 

「私がもし発音ができていたら、アナタはどうしていた?」

 

なんとあやふやな質問なのか、と思ったが(笑)

 

夫はこう答えた。

 

「それはそういう状況になってみないと分からないなー。

でも自分は聞こえる立場だから、自分に合わせて頑張って喋ってほしいとは思わない。

まみが手話を必要としていればもちろんそれに合わせていたと思うよ。」

 

なるほど。

ここがキュンとしたポイント。(笑)

 

 聴者に合わせるために手話をしない人については?

次に、夫に私の知人を例に挙げて話した。

 

知人が手話は要らないと言っている理由

知人は発音が出来るけど、補聴器を使ってでも人の話は聞こえない。

そして手話を使うこともある。

 

ただ、その知人は、

「私は発音が出来るから、聴者に合わせて聴者の世界の中で生きていくためには手話は要らない」

という考え方を持っている。

 

その理由として、

1:聴者の世界の中では手話ができない人の方が多いから

2:聴者の中には「手話は面倒」と思っている人が多いから

3:私自身が発音ができるから、発音が出来る方が聴者は喜んでくれると思うから

を挙げている。

 

そして、知人は「自分が頑張って相手の口を見て話を読み取る方が聴者に喜んでもらえる」と思っている。

 

更に、別の知人の中には「自分は発音ができるから、発音が出来ない人のことを馬鹿にしている」人もいる。

 

 これについて、夫に

 

「こういう人がいるってことは、この人にそう思わせてしまった聴者社会も悪いんじゃない?

こういうことがあるからこそ、やっぱり発音が出来る方が何かとお得だと思ってしまう人もいるわけだし。」

 

と話してみた。

 

そして、

「実際に聴者社会の中では、会社の面接で発音が出来る人と出来ない人がいたとすると、会社としては発音が出来る人を採りたいと思うし、実際発音が出来る方を採ることが多いこともある。」

ということも話した。

 

すると、夫の答えは意外なものだった。

 

発音が出来るかどうかで判断すること自体が色々と間違っている

 夫の答えはこうだった。

 

まず、「会社としては発音が出来る方を採りたいだろう、だから発音が出来ていた方が何かとお得だ」という考え方は違うと思う。

なぜなら、最終的に会社にとって大事なのは仕事が出来るかどうかであり、実際、発音が出来ていてもそれだけで、結局は仕事はできないという人もいるだろう。

逆に発音ができなくても仕事はバリバリ出来るという人もいるだろう。

更に言うと、発音ができていても、その会社の仕事がその人に合うかどうかも大事になってくるよ。

従って、「発音が出来ない人よりは出来る人の方を採りたい」と考えてる会社も「発音ができる=仕事ができる」という見方は間違っている。

なので、長い目で見ても、「発音が出来ていた方がお得」という考えはどちらも(会社側も聞こえない人の側も)間違っている。

 

そう思わせてしまった聴者社会が悪いのでもない

そして、「こういう人がいるってことは、この人にそう思わせてしまった聴者社会も悪いんじゃない?」とまみは言っていたけど、それは自分は違うと思う。

 

その知人は、今までずっとそういう世界の中で生きてきたわけで、その中でそういう考え方になった。

その人の育ちやその人の家庭環境も大きいと思うし、そこからそういう考え方になったからこそ、かえって周りにはそういう聴者(=手話はいらない、手話は面倒くさいと言う聴者)しか集まってこなくなった・・とも言えるんじゃないかな?

だから、その人にそう思わせてしまった聴者社会が悪いんじゃなくて、その人自身がそういう考え方で育ってきたからその考え方に賛同する人が周りにいるだけ。

その人が子どもだったら、そうなったのは親や周りの人たちの責任になるけど、今いい年をした大人ならば、いくらでも変わるチャンスはあったと思う。

それでも今もまだそのまま、ということは、色々な人と出会い色々な考えを知ることをしてこなかったということ。

または、そのチャンスがあっても「自分が一番正しい」と思い込んでしまい他の考えを聴くのを拒否してしまったんじゃないかな?

だから、特に発音が出来ない人を馬鹿にするという人なんかは、聴者社会が悪いのではなく、その人自身の性格の問題もあると思う。

 

更に、その人は、自分がいる世界が全てだと思っているのかもしれない。

それで、他の世界を見ようとしていないのかもしれない。

 

でも、その世界の中でその人が満足しているのであれば、それでいいと思う。

また、他の世界も知った上で、それでもその世界(手話は要らない、聞こえない人の方が頑張って聞こえる人に合わせていく方が喜ばれると思っている)が良いと思うのであれば、それでも良いと思うよ。

こちらとしては、「その世界の中であなたは頑張ってやっていってください。」と言うしかない。

 

聴者の立場からするととても不愉快に感じる

それに、全ての聴者がそういう人ばかりだと思う?

違うよね?

手話は要らない、手話は面倒と言う聴者ばかりじゃないよね。

 

それなのに、最初から

「聴者は手話はいらないよね?

聴者は手話がない方が楽だよね?

聴者は聞こえない人は発音が出来ていた方が楽だと思っているよね」

と決めつけられて、その姿勢で来られても困る。

 

自分は、そういうのはあまり気分がいいものじゃない。

 

 ・・・と、夫は答えた。

 

私は「確かに、発音が出来ていた方が何かと良いことは多いのかもしれないね~」とかいうような返事が来ると思っていたからびっくりした。

 

一番大事なことは何かを考えた方がいい

 

そして、この話を思い出した。

お互いに確実に通じる方法があるかどうかが一番大事

少し前に、夫と私は手話のことで色々と話したことがある。

具体的には、日本手話と対応手話について。

 

その時に、夫は私にこう言っていた。

 

「自分は、対応手話とか日本手話とか、その違いはまだよく分かっていないかもしれない。

それに、やはり今も、手話というのはまみと話すための手段だと思っている。

 

だけど、それでも自分が一番怖いと思うことがあって。

それは、いざ!という時にまみと会話が出来なくなること。

まみが自分に言いたいことをちゃんと伝えられなかったり、また、自分が言いたいことがまみにちゃんと伝わらなかったりすること。

これが自分にとっては一番怖いことなんだよ。

 

なので、一番大事なことは何か、というと、

お互いに確実に通じる方法があるというものを持っているということなんじゃないかな。

それがあれば、本当は自分は対応手話でも日本手話でもどちらでもいいと思っている。

ただ、まみが日本手話の方が分かりやすいというのなら、自分はもちろんまみに合わせて日本手話も読み取れるようにしたいと思う。」

 

・・・と。

 

まとめると、夫は

「自分は聞こえるから、聞こえない人に合わせていく」

という考え方の人であり、その上で相手が日本手話を求めていればそれができるように努力していきたいし、対応手話の方がいいのならもちろん対応手話ができるようにしていきたい、と考えているということ。

 

口の読み取りだけでは聴者としても不安になる

更に夫はこう言っていたことがある。

 

「もし、まみが口の読み取りだけで生きてきた人間だとしたら、自分は最初は楽だな、と確かに思うかもしれない。

でも、きっと、まみと色々と話していくにつれて、「口を読み取ってもらうだけでは怖いなー」と思うようになったかもしれない。

口の読み取りって限界はあるし、例えば、大事なことを話すときに「完全に伝わる」安心感がないっていうの、怖いことだよ。

それに、相手はちゃんと読み取った!と思っていても、それが実は間違っていたり。。ということだってあるでしょ。

この状態で大事なことを話すっていうの、すごく怖いことだよ。

だから、むしろ、口を読み取ってもらいながらそれだけで会話するのはちょっと遠慮したいな。

それだったら、一緒に手話を覚えていった方がいい。」

 

 

聞こえる人の方からも歩み寄るべき

そして、夫は過去にもこう言っていたことがある。

 

「自分は聞こえるから、頑張れば手話でもなんでも覚えられる立場。

でも、聞こえない人は、どれだけ頑張ってもどんなに努力しても聞こえるようにはならないし、頑張って練習しても発音がうまくならない人もいる

聞こえも発音も聞こえない人にとっては誰でも練習を積み重ねれば必ずできるようになる、というものではない。

だから、聞こえない人だけに努力を押し付けるのではなく、聞こえる人の方も努力して歩み寄るべきだと思う。

 

実際、今は手話を覚えようとしてくれている人も増えてきているし、手話は出来なくても筆談で対応しようとしてくれている人も増えてきているよね。

その他にも例えばまみに対して色々な方法でコミュニケーションを取ろうとしてくれている人もいるよね。

だから、聞こえない人は、例えば発音ができないことや聞こえないことに目を向けるのではなく、そういう人たちが増えてきているということにも目を向けて色々と考えた方がいいと思う。」

 

これを聞いて、私は素直に嬉しく思った。

そして、こういう人がもっともっと増えてほしい、と切に願った。

 

まとめ

今回は夫の話だけで私なりの考えは述べないが、

この夫の言葉から色々と考えることもあった。

 

それでも、夫のような考えは受け入れられないという人もいるだろうし、それはそれで構わない。

ただ、こういう考えを持つ聴者は実はろう者が思っているより多いのではないか?と思ったのと、

 

「聴者は手話は要らないと思っている人が多いから・・」

「聴者は手話は面倒だと思っているだろうから・・・」

 

と思ってしまいそのために自分から聴者に合わせるために頑張りすぎてしまう人がいれば、それは違うのだということを知ってもらいたいと思ったのでこのブログを書いた。

 

ただ、これについては

「手話をする人はカッコ悪い」

「聴者と一緒にいることで優越感を得たい」

などの理由で聴者にすり寄って優越感を得たいという人と、

「聴者に気遣って聴者のために頑張って合わせていく人」

はまた違うことも書いておきたい。

 

そして後者の人の方が自分を抑えて頑張りすぎたあまり鬱になってしまったケースもあるので、そういう人は早く自分の考えを改めてほしいなと思う。

前者の場合は、「自分がそうしたいならそれで構わないが、後々自分が苦労するかもしれないよ」と思う。

 

最後に

ただ、夫とここまで色々と深い話ができたのは、やはり手話のおかげだと私は思っている。

 

というよりも、私が手話と出会い、手話の魅力に触れることができたから。

そして更に夫が私と手話で会話ができるように頑張って覚えてくれたから。

 

手話の存在があったから、また、夫が手話を覚えてくれたから、私たちは手話を使って色々と会話することができた。

 

もしこれが筆談や口話(聞こえる人の口の形を読み取って話を理解する方法)だとここまで話せなかったかもしれない。

 

ちなみに、ここまで書くと

 

「でも、旦那さんは手話ができるからそう思ってるだけじゃないの?」

「手話ができない聴者はそこまでは考えないと思うよ」

 

と言われそうなので、あえて付け加えておく。

 

夫は実はそこまで手話バリバリではない。

実際は、自分で手話で表すことはできても読み取りの方がまだまだで、ほぼ私の手話しか読み取れない状態である。

 

つまり、

手話ができるできないは関係なく、

こういう考えを持つ聴者もいる、ということ。

 

 

ここまで読んでくれてありがとうございました。