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ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

発音が出来て良かった!と言う人たちへ。


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時々、「あー、私発音が出来て良かった~」と言っている人を見ます。
それはそれで別に構わないと思います。

 

でも、ちょっと待って。

 

「発音が出来て良かった」という言葉をもう少し振り返ってみませんか?

あなたはなぜ、「発音が出来て良かった」と思ったのでしょうか?

ここではそれについて私が思っていることを書いていきます。

 

発音が出来て良かった!という言葉には様々な社会問題が隠れているね


まず、「発音が出来て良かった」というのはどういうことか?

分からない人もいると思うので簡単に説明します。

 

これは具体的には、聞こえない人たちまたは聞こえない子を持つ親から発せられる言葉なのですが、聞こえない人の中には「発音ができる人」と「発音ができない人」がいるのです。

 

そして発音ができる人またはその親から「あー、発音ができてて良かった!」という言葉が出るということです。

 

そして一般的には、発音ができるようになるかどうかは小学校に上がるまでの段階でほぼ決まってくるのです。

 

ではここからは、聞こえない子が小学校に上がるまでの流れを簡単に説明します。

 

聞こえない子が小学校に上がるまで

 

ここからは聞こえない子が小学校に上がるまでの過程を簡単に説明させていただきます。

 

生まれた時

 

耳が聞こえないor聞こえにくい人は、まず生まれた時、または「あれ?なんかこの子聞こえてないんじゃない・・・?」と親が気づいた時から病院で診察を受けます。

 

聾学校または言葉の訓練施設での訓練

その時点で「聞こえない(聴覚障害がある)」ということが分かった時から聾学校、または言葉の訓練をする施設などに通います。
そしてそこで「発音の訓練」「聴覚訓練(補聴器を使って聞く訓練)」などを受けます。
それは大体2歳~6歳まで続きます。


何故そうする必要があるのか?ということは、

まず、

「聞こえる子どもはなぜ誰からも教えてもらっていないのに自然と喋れるようになるのか?」

ということを考えると分かるかと思います。

 

聞こえない子が自然と発音できない理由

ここで、聞こえる子どもたちは当然、赤ちゃんの時から聞こえていますよね。
そしてそこから自然と周りの人、特に親から話しかけてもらったりなどで自然と言葉を覚えていきます。
そのため、2歳ごろになると誰からもやり方を教えてもらっていないのにいつの間にか話せるようになっているのです。

 

でも、聞こえない子どもはそれができません。
そのため、大体2歳ごろから発音の練習をすることが必要になってくるのです。

 

また、この2~6歳の段階でその子のおおよそのことが決まってくることが多いようです。
例えば発音がうまいか下手か、また補聴器でどれくらい耳で聞きとれるかどうかなど・・・。

 

子どもの進路は発音の優劣と関係ない

 

その後、その子の状況や周りの環境に合わせて聾学校の小学部または地域の小学校などに進むことになります。


ただし、発音が下手だからといってその子は地域の小学校に行けないとかそういうことはありません。
またそれと同じで、発音がうまいからといってその子は必ず地域の小学校に行くべき、ということも決まっていません。


・・と、前置きは長くなってしまいましたが、発音ができるかどうかは子どもたち個々の状況によって変わってくるのです。

 
なので、発音ができるできないがその子の進学に大きく影響することはありません。

 

実際、私は発音はできませんが、6歳まで聾学校に通ったあと地域の小学校に入ることになりましたし。

 

では、ここからはいよいよ本題、なぜ「発音が出来て良かった」という言葉に様々な社会問題が隠れているのか?を私なりに考えたことを書いていきたいと思います。

 

発音が出来て良かったと思うような社会が問題

 

まず、今の日本は音声主義で、とにかく「音声」が全てになっています。
そして、【とにかく話すことができなければやっていけない・・】という場面が多すぎると感じています。

 

インターフォン

その分かりやすい例がインターフォン。
例えばATMでトラブルが発生した時、周りに誰もいないと発音ができない人は困ります。

なぜかというと、そばにインターフォンがあっても受話器を取って


「トラブルが発生しました。
ちなみに私は耳が聞こえませんので、あなたの言っていることは分かりません。
なので、すみませんがとにかくこちらまで来てもらえますか?」


ということをお話しすることもできません。

 

エレベーター

またエレベーターにも同じことが言えます。


エレベーターが故障しても、連絡手段はエレベーターに備え付けているインターフォンのみです。
そのインターフォンにモニターが付いていればまだ良いのですが、ついていない場合は大変困ります。

 

・・・と、このように、今の日本は「喋れて、かつ、聞こえる」ということが前提となって作られていることが多すぎます。

 

人とのコミュニケーション

あとはもちろん、人とのコミュニケーションも発音が出来ていないと大変なことは多いですよね。

 

例えば手話を知らない人たちが多数派だからというのもそうですが、それ以外にも


「筆談が面倒くさい」
「口の形をじっと見られるのが嫌」

 

など・・・
様々な理由で聞こえない人と会話すること自体を敬遠する人も少なくありません。

 

このことからも、皆さん、

 

「発音が出来るようになっていた方がいい」
「発音が出来てて良かった!」

 

と思ってしまうのは無理もないと思います。

 

ただ、そこで終わっても良いのでしょうか?

 

実は、これらは全て「問題である」のです。

 

つまり、「発音が出来る人を基準にして作られた仕組み」こそ、差別とも言えるし問題視しなければならない重要なことなのです。

 

そういう日本を、「こういうもの」「これが当たり前」として、「問題視していない」ことの方が問題ではないかと私は思うのです。

 

驕りが生まれることが問題

ここからはもう一つの問題について書いていきます。

 

「驕り」

 

驕りという言葉は、見下しを生むことがあります。

つまり、「驕り」と「見下し」はセットになると思っています。

 

ここからは具体的にどんな問題があるのかを書いていきます。

 

子どもたちの「驕り」

聞こえない子どもたちは小さい時から

 

「発音がうまい方が良い」

 

ということを周りの大人たちから教えられて育った子も多いため

発音が出来る子はできない子をいじめたり、見下したり・・ということも起こっています。

 

親の驕り

また、親も、

 

「子供さんの発音がうまくならなければ、この社会を生きていくのは難しい」

 

というプレッシャーをかけられ、何が何でも発音がうまくなるようにしなければ!と思い子どもに厳しい訓練を強いたりすることがあります。

 

また、発音が下手な子の親に対して態度がでかくなったり、偉そうにしたり。。という現象を生み出すことがあります。

 

父親の収入によって奥さんの世界でも格差が起こると言いますが、あれと同じで子供が発音ができるかどうか?でも格差が生まれていることがあります。

 

(注意:昔はそうでしたが、今は違うかもしれません)

 

このように、発音ができるかどうかによって人間関係が大きく変わったり、また、子どもや親などの心をゆがませてしまったりということもあちこちで起こっています。

 

聴者への影響も大きい

更に言えば、こういう状況を通して他の何も知らない聴者からは

 

「手話というものは発音が出来ない人のためのものなんだ」

 

と思われてしまうということも起こっています。

 

つまり、発音が出来る人が「私は発音ができるから手話はいらない」と言ってしまい、それを聞いた聴者が

 

「なるほど、手話は発音が出来ない人のためのものなんだな」

 

と誤解してしまうことがある、ということですね。

 

そして更にそこから、別の場所でも

 

「あなたは発音ができるから手話は必要ないんだよね?」

 

と実際に手話を必要としている人に言ってしまう。。。

ということも起こりえます。

 

発音ができるかどうかでその人が決まる、というような考え方は意外とこんなに多くの弊害を生んでいることもあるのですね。

 

それによって社会に歪みが起きていることも事実です。

 

これも、今後考えていかねばならないことだと思います。

 

さて、話は戻って。

ここまでで、「発音が出来て良かった!と思うような社会がなぜ問題なのか」について、実際の問題点を大きく2つに分けて書いてみました。

 

ここから、「では、一番大事なことは何か?」を書いていきます。

 

大事なことは発音ができるかどうかではない

本当に大事なことは、「発音ができるかどうか」ではないのです。

 

それよりも、

 

「発音が出来てて良かった!」

 

と思うだけで終わってしまい、

 

「自分がなぜ発音が出来て良かった!と思うのか?」

 

というところまで考えて、社会問題に気づかないこと・・・

そっちの方が問題ではないかなと私は感じています。

 

もちろん、発音が出来ることは別に悪いことではありません。

また、社会問題に目を向ける向けないも本人の自由です。

 

ただ、そこで驕ってしまい、発音が出来ない人を下に見たりしてしまう。。。


そっちの方に目がいってしまい、肝心の「発音が出来ていないとやっていけないような社会」に目を向けることをしなくなる。
繰り返しますが、こっちの方が問題だと私は思うのです。

 

まとめ


まとめると、

 

発音が出来る人も出来ない人もお互いに思いやること。

発音の優劣だけで人を判断してはならないということ。

 

それだけでなく、

 

発音ができないと生きていけないような社会に問題意識を持つこと

発音が出来る出来ないに関係なくみんなが暮らしやすい社会を作ること

 

・・・こちらの方が実は「発音ができるかどうか」よりもずっとずっと大事なことであり、今後の社会に必要なことではないでしょうか?

 

当然、社会問題に目を向けるか向けないかも本人の自由なので、必ずしも「社会問題に目を向けないのはダメ」と言ってるわけではありません。

 

ただ、発音がうまいことに目がいきすぎてて

 

「あー、発音ができてて良かった!」

 

と思うだけで終わるのはちょっと違うかなと思うのです。

 

そして、発音ができない人を見下すのではなく、

思いやりを。

 

では社会問題に対しては具体的に何をすればいいのか?とあなたが思った場合。。

それはご自分で一度、試しに考えてみませんか?

 

きっと、発音が出来て良かった、だけで終わっている人たちは、問題意識を持たず、また自分で考えることも今までにしてこなかったという人が多いと思うので、

まずは自分で考えることからスタートしてみてはどうかな?思うのです。

 

また、聞こえない子を育てる親たちも、

 

発音ができるかどうかで人の優劣を決める子に育ってしまわないよう、

また、思いやりがあり問題意識を持つ子に育つよう、

 

親の方でも子育てに気をつけてほしいなと思っています。

 

改めて。

 

発音が出来ることが全て・・・

これは本当にそうでしょうか?

 

それでは今回はここまでで終わります。