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ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

聴覚障害のカテゴライズの複雑さは同時に今の日本の聴者優位社会の問題点を示している

こんにちは。

一言聴覚障害といっても、日本ではろう者、難聴者、中途失聴者など。。。

複雑なカテゴライズがありややこしく感じてしまう人も多いですよね。

ここでは、私がそのカテゴライズについて考えたことをまとめていきます。

 

まずは、聴覚障害とは何か?という基礎から話していきますね。

 

聴覚障害は3種類ある

まず、聴覚障害には大きく分けて3種類あります。
「ろう」「難聴」「中途失聴」。


これらはそれぞれどう違うのか?を【医学的な視点】と【アイデンティティからの視点】に分けて話していきたいと思います。

 

★ただし私は専門家ではありませんので、あくまでも私なりの考え方として話していきます。★

 

それではいってみましょう!

 

ろう・難聴・中途失聴の違いとは

 

一般的に、ろう者、難聴者、中途失聴者という言葉を聞くとパッと思いつくのが「ろう者はすごく重い人、難聴者は軽い人、中途失聴者は途中から聞こえなくなった人」ではありませんか?

 

それは医学的にはあながち間違いではないです。

それをもっと具体的にまとめていきますね。

 

医学的な視点での判断

それでは、まずは「医学的に」見た違いからいきます。

医学的には

 

ろう→両耳が100デジベル以上であること。

※デジベル=聴力の単位。

 

難聴→両耳が30デジベル以上であること。(間違ってるかもしれません)

 

中途失聴→生まれた時は聞こえてたが、途中、例えば病気や事故などなんらかのことが起こって聴力が落ちたこと。

そしてそれが治らないままになっていること。

 

と言われているようです。

では次にアイデンティティからの視点だとどうなるのか。

 これは精神的な問題とも絡むので少々難しいかもしれませんが、なるべく分かりやすくまとめていきますね。

 

アイデンティティからの視点での判断

 

まず、聞こえない人たちはほぼ誰でも「自分の耳が聞こえないこと」を受容する過程があります。

 

この受容過程の時点で「聞こえないことを自分の中でどんなふうに受け止めているか」によって自分の中での「聞こえないことに対する考え方」が大きく変わってきます。

 

そしてそれによって、医学的な視点を超えたアイデンティティの視点から「自分はろう者」「私は難聴者」と決めることがあります。

 

これについてもう少し詳しく書いていきますね。

 

聞こえない人の世界の中でのカテゴライズとは

その前に注意しておきたいのですが、今から書く話は私の周囲またはTwitterなどのSNSを通して見聞きした話です。また、私個人の考え方もあります。

そこを頭にいれた上で読んでおいてもらえると幸いです。

それでは、書いていきますね。

 

ろう者は受容済、難聴者は受容困難という見方が多い

 

聞こえない人の世界の中では

 

「ろう者」=自分が聞こえないということを受け入れ、手話を使い、聞こえない人として生きていくんだという自信を持った人たち

 

「難聴者」=手話は抵抗があり使うことを嫌がる、または手話は使うけど声も使う。

そして、聴力が軽く発音もできるから自分は聴者に近いのだというプライドが見え隠れする人たち

 

というふうに見ている人が多いです。

 

これは医学的な視点を越えたアイデンティティの問題ですね。

 

そして聞こえない人の世界の中ではこういう見方をしている人がとても多く、またこのためにろう者と難聴者の間で壁ができたり、お互いがお互いを見下したりということがあちこちで起こっていることもあります。

 

それだけでなく、例えば医学的には軽い難聴の人であっても、「自分はろう者だ」と言っている人もいます。

 

つまり、医学的には難聴だけどアイデンティティはろう者、ということですね。

 

そして、ろう者、難聴者にとって医学的なカテゴライズよりもこのアイデンティティによるカテゴライズの方が重要なのです。

 

では中途失聴の人はどうなのか、というと。

中途失聴の人途中から聞こえなくなったために、まずそこから自分の耳が聞こえなくなったという事実を受け入れることがとても困難です。

(中にはすぐに受け入れた、という人もいますが)

 

そして、自分は聞こえなくなったのだ、と受け入れてからその後の自分のアイデンティティ模索の旅が始まります。

そして手話を選択し手話で生きる道を選ぶ人もいれば、やはりまだ自分は聞こえる人に戻りたい、と思い、手話を拒否する人もいます。(または年齢的に手話を覚えるのが難しいなど何らかの都合で手話を覚えない人もいますが)

そしてそこから「自分はろう者です」と言い始める人もいれば「難聴です」と言う人もいてバラバラです。

 

これもやはり医学的な視点を越えたアイデンティティの問題と大きく関わってくることが分かりますね。

 

アイデンティティによるカテゴライズはとても重要である

なので、繰り返し言いますが、ろう者難聴者にとっては医学的なカテゴライズよりもアイデンティティでのカテゴライズの方が大事ということになるのです。

なぜなら、アイデンティティでのカテゴライズの方は特に難聴者の場合「自分は聴者みたいになりたい」という憧れが反映されることがあるからです。

(ただし、難聴者だと言っている人の中には単純に自分は聴力が軽いからという意味で難聴ですと言っている場合もあるので、全部が全部そうだとは言いきれません)

 

そしてろう者として生きる、ということを選んだ人たちは一概に「自分は聞こえないのだ、だから聞こえない人として生きていく」という受容がある人たちということになります。

そこに聴者への憧れや未練というものは見えません。

 

そのため、ろう者が例えば新聞の取材を受けたとき、記事に「難聴者」と書かれると嫌がってそれを直してほしいと言う人もいます。

でもその多くは「ろう者という言葉は差別用語だから」と言われ修正させてもらえないことの方が多いようです。。本人にとっては差別用語ではなく大事なアイデンティティなのに。

ここは本人の気持ちを尊重してほしいものですね。

 

この背景は聴者優位の社会の影響が大きいのではないか

 

そしてこういうアイデンティティでのカテゴライズがあるということは、聴者優位の社会、「聞こえることは素晴らしいのだ」と思わせる社会、そしてその言葉通り「聞こえないということが不便な社会」がある背景が問題なわけです。

 

このように、ろう者か難聴者か中途失聴者か。。。というややこしいカテゴライズがある今の日本は、同時に聴者優位社会の問題点を示しているような気がします。

 

ちなみに海外ではろう者、難聴者などの複雑なカテゴライズはなく、全て「DEAF」(耳が聞こえない)の一言でまとめていると聞きます。

なのでそれを考えてもやはり。。この現状は色々と考えさせられますね。