あなたに伝えたい、世の中を生きやすくするために

ひとりのろう者からあなたへ

ろう者として生まれて感じた社会の壁と合理的配慮とは

レバレジーズ株式会社様に記事を紹介していただきました

 

こんにちは。

最近、レバレジーズ株式会社というところに私の記事を紹介していただけたので、今回は私の方からレバレジーズ株式会社様の紹介をさせていただきたいと思います。

 

先ず今回、私が紹介して頂いたのはコチラの記事です。

 

tellyou.hateblo.jp

 

そしてこちらの記事を、レバレジーズ株式会社様はこのように紹介してくださいました。

 

https://efmlea.dm.files.1drv.com/y4mP8GgFMcZbYCl2l4bjc7gEO1pWPlpHWS6HRnCSpTcHgt4Z9B7fdmMOSoypIm3s0pl29x_FVUVVVyuvj0gkISuuW85F5cVtLk3LVvuwGx_GzCmNAVwcUFhsqPmCbUAKPtmazYC-cwT33gPKHU68Ka2Db72HQssTZfwURrlD_xCktRqtGY-44AfkE-wAHg9fyCE73KmIwPOMApQKzsAnOO7oQ?width=718&height=651&cropmode=none

https://job.kiracare.jp/note/article/4833/

 

ちなみに、この時は老人性難聴のことをテーマにした記事で、その中で私の記事を紹介してくださいました。

とてもありがたいことです!

 

それでは、お礼としてレバレジーズ株式会社様の紹介をさせていただきますね。

 レバレジーズ株式会社とは?

 渋谷ヒカリエを本社として、全国に20の支店を構える会社です。

他、海外ではベトナムにも支店を構えています。

leverages.jp

 

海外の方々からも好まれるようなデザインのサイトになっておりとてもカッコいいですね。

 

設立年度

2005年4月6日に設立されました。

そして最初はSES事業から始まったとのことです。

SES事業・・エンジニア派遣サービス事業

 

沿革

その後、2009年度「ベストベンチャー100」に認定されました。

そこからは色々と飛躍し、2011年5月に株式会社毎日新聞デジタルより「注目企業50社」のうちの1社に選出されています。

その後も更に2015年、厚生労働省認可「職業紹介優良事業者」に認定されています。

 

社長はどんな人? 

社長は岩槻智秀さんというお方です。

1980年生まれ、現38歳(2018年時点で)

「関係者全員の幸福を追求し、各個人の成長を促す」ということを理念とし2007年に起業しました。

 

学生時代

大学にちょうど入学したタイミングで父親が経営していた会社が傾き、それからは貧困生活を強いられました。

そして大学に行く暇もないほど昼夜問わず働いたそうです。

 

起業のきっかけ

この時に、「なぜ貧困は起こるのか?」「貧困をなくすにはどうしたらいいのか?」を考えたことが後々起業のきっかけにつながったそうです。

またもう一つ、年齢や性別に関係なく皆がお金に困らない社会を作る、そして皆が社会に役立つスキルをつけるように成長することができる会社を作ろう、と思ったのもこの大学時代の貧困生活が基盤となっているそうです。

 

その後、いくつもの就職活動をしましたが、やはり自分の想いを叶えるためには起業しかない、と思い、大学卒業後すぐ起業したそうです。

 

この詳しいことはこちらに書いてあるので、ぜひ読んでみてくださいね。

漫画形式なので読みやすいかと思います。

 

leverages.jp

https://efmmea.dm.files.1drv.com/y4muJT_PFcGcZGOPuyvcaQ-umn05ptB9KyAitr95r7UACdXEzAq2p8hkKaPe4CdIEAljqxR8RyM20rCLzR49s9f6yGMnsgLymeYTEONJmpUTfagJKia-WqVgjEht3wfO8pfu_4PhXO3edfJCX8OZP_SQ6wpUuhNUuqkP5lHBdnxzXcIoDB-fj_uUFaE3eb-ZWu5OEW-dEjr0ay989KdtBpWRw?width=654&height=475&cropmode=none

 

現在の業務内容

それでは最後に、レバレジーズ株式会社の今の業務内容の紹介をさせていただきますね。

基本は「人材紹介」がベースとなっているようです。

 

エンジニア向けサービス

例えば大手ベンチャー企業を中心に、その企業のプロジェクトが終了するまでの間企画・開発・構築・運用保守など幅広い分野で人材を提供するサービスを行なっています。

 

これにより、会社内で人材が足りない時でも有能な人材を派遣してもらい、プロジェクトを達成することも可能です。

(ただし派遣してもらったからといって必ず達成できるかはまた別で、それはその会社の状況にもよると思います)

 

医療業界向けサービス

この会社はエンジニアだけでなく、医療業界向けにもサービスを行なっておられます。

その大きな事業が「人材コンサルティング」です。

これは例えば国立病院機構から地域クリニックや介護施設など様々な事業所が抱えている「経営」「人材」の問題を解決に近づけていくサービスとのことです。

 

これは大変ありがたいサービスですね。

特に今は超高齢化社会に向かっていることもあり、今後は更なる看護師不足や病院内でのマネジメントなど様々な問題が出てくるでしょう。

そういう時に助かりそうです。

 

新規メディア開拓サービス

最後に、レバレジーズ株式会社様は新規メディア開拓にも取り組んでおられます。

例えば、第二新卒の就職支援やアパレル業界に特化した転職支援サービスなど・・・今後成長が見込まれる分野でのメディアを開拓しておられます。

 

ニーズはあるのに、サービスが存在しないというようなところにまで目をつけてどんどん事業を拡げていくところはすごいですね。

 

最後に

実は私、アパレル業界で働いていたことがあります。

その時に何かの流れでレバレジーズ株式会社の名前を聞いたことはありました。

しかしその時は特にこれといって何も思いませんでした。

その後、今回記事を紹介していただいたことで色々と調べてみたのですが、そのおかげでレバレジーズ株式会社様のことを詳しく知ることができました。

 

特に、起業当時からの事業の軸が「ブレない」ことに驚かされました。

大抵は起業してからは「利益を得るために」最初思っていた構想とは別のことをやりがちなこともあります。

そうしないと従業員に給料をお出しすることができないこともありますし。

しかしレバレジーズ株式会社様はわき目もふらず、これと思ったものだけをまっすぐにやってきた印象を受けました。

また、しっかりと利益も得る努力をしておられたところには感銘を受けました。

 

また、「お金に困らない社会を作る」「各々がスキルを身につけて成長していける環境を作る」という考え方は非常に私の考えてきたことと合っておりそこにも感銘を受けました。

 

特に聴覚障害、耳が聞こえない方々は周りに理解されにくい障害でもあります。

外見からでは分かってもらえないことも多いですし、また、コミュニケーションがうまくいかないことによる誤解も多く受けたり、逆に発音ができるために誤解されたり・・

色々と大変な障害でもあります。

これについては以下で紹介していますので、そちらも見て頂けると嬉しいです。

 

tellyou.hateblo.jp

 

 

tellyou.hateblo.jp

 

そしてこういうことが色々とあるからこそ、社会にうまく馴染めず結局引きこもりになってしまったり、また転職を繰り返したり・・という現象も多く起こっています。

 

また、聞こえないがためにスキルアップしたくてもスクールに通うこともままならないこともあります。

私もスキルアップしたくてスクールに通うことを考えていた時期がありましたが、どこのスクールも門前払いでした。

(今は色々と変わってきていますが)

これについてはこちらで書いています。

 

tellyou.hateblo.jp

 

そのため、以前から「きこえない人でもスキルアップできるように」「きこえない人も自力で収入を得ることができるように」したいという気持ちがありました。

なので、レバレジーズ株式会社の理念にはすごく共感しました。

 

本当にこういう考え方を持つ会社がもっと増えてほしいなと思います。

 

それでは今回はここまでです。

 

最後に、私の記事を取り上げていただき、ありがとうございました。

 

 

 

コーダの子の立場や悩みなどを色々と調べてみた

 

今回は、絵日記ブログの続きをここに書きます。

 

絵日記ブログ

 http://catfood22.blog.jp/archives/25807026.html

 

上のブログでは、参観日に手話通訳を連れて学校に行った友達の子どもの反応について書いています。

ここでは、子供は親が来たことに喜んでおり、さらに周りに

「俺のオカンは手話ができるんだ!すごいだろ?」と自慢しています。

それを聞いた周りの子どもたちは「すごーい!!」と言い、親の周りに集まって「手話教えて!」と言ってきたとのこと。

それについて絵日記ブログで書いてるので、まずそこを読んでもらえると幸いです。

 

そしてこのブログでは、聞こえない親を嫌がるコーダの子について書いています。

 

コーダの子と聞こえない親との関係を考える

まず、話しておくことがあります。

私は子どもを持っていません。

なので偉そうなことは書けないのですが、今回は様々な立場の方々からの話を聞いた上でなるべく平等になるようまとめました。

もちろん、コーダの立場、聞こえない親の立場、両方の立場になって考えてみました。

その上で、コーダの子が聞こえない親を嫌がる原因について書いてみました。

 

そして次に、初めて見る方のためにこの言葉を説明しておきます。

 

コーダ:聞こえない親を持つ聞こえる子ども

ここでいう聞こえない親とは、両方とも聞こえないだけでなく片方だけ耳が聞こえない親も含みます。

 

このコーダの問題も色々とあるようです。

詳しく知っているわけではないので、今回は私が知っている話に限って書いておきます。

(主にコーダの友達から聞いた話やSNSを通して知った話、また、聞こえない友人から聞いた話がほとんどです)

 

耳が聞こえない親を嫌がるコーダ

コーダと言っても、幼少期のうちは「親の耳が聞こえない」ということはそこまで意識していないというのは多いようです。

 

親と一緒に歩きたくない

でも、ある程度の年齢・・・

例えば小学生または中学生になって思春期にさしかかってくると、

例えば

 

「親の声が変だとからかわれるから恥ずかしい」

「親が手話しているとアホみたいに見えるから恥ずかしい」

 

・・・などの理由で親と一緒に歩くのを拒否するコーダもいるようです。

 

参観日に来るのを嫌がる

また、親が参観日に手話通訳を連れて学校に来ることを嫌がったりということもあるようです。

中には、参観日があることすら親に知らせずに学校からのお知らせプリントをこっそり捨ててしまったりということもあるとか。

 

嫌がる原因を考えてみた

この問題の根本的な原因については

 

「親が聞こえないことが原因だ」

 

と考えている人はとても多いように感じています。

 

でもそれは本当にそうでしょうか?

 

「親が聞こえないこと」自体は原因ではない

ここで、もう一度コーダの子が聞こえない親を嫌がる理由を改めて見直してみましょう。

その多くは

 

「親が聞こえないから恥ずかしい」

「外で親と手話を使うとじろじろ見られている気がする」

「自分の親が他の人と違うのが嫌」

 

などです。

これを良く考えてみると、

 

親が聞こえないことが全ての原因ではないように思えてきますよね。

 

一番の問題は寛容性がない社会

 

一番の問題は

 

「手話をバカにする人たちがいること」

「自分とは違うものを異質だと思い変な目で見る人がいること」

 

など・・・

そういう人たちがいるから、ではないでしょうか?

 

つまりは、親が聞こえないこと自体が問題ではなく、寛容性のない社会が問題だ、ということなのですよね。

 

そして、それをコーダの子たちは肌で感じているからこそ、聞こえない親を恥ずかしく思うようになってしまうのかもしれません。

 

これはコーダの子にとっても大変辛いことです。

そして、「親が聞こえていれば良かったのに」と思うようになってしまうのです。

 

なので、コーダの子が聞こえない親を拒否する問題を解決するためには、みんなが一緒に社会問題を解決していけるように考えていかないといけないと思います。

具体的には、手話は恥ずかしいものではないと思える社会、また聞こえないことは恥ずかしいことではない、と言える社会ではないでしょうか。

 

もしかしたら親自身にも問題があるかもしれない

でもこれはコーダの子が100%そうかというとそうではなく、中には絵日記にも書いたように聞こえない親を誇りに思い、みんなに対してドヤ!と紹介する子どももいるようです。

 

上記で述べたコーダの子については、たまたまその子を取り囲む環境が聞こえないことに対して否定的なものだったこともあると思いますが、

絵日記に書いたケースのようにコーダの子を取り囲む環境が大変好意的なものだというケースももちろんたくさんあります。

 

ということは、コーダの子が親を嫌がる原因は100%社会にある、とは言い切れないケースもあるようですね。

 

では、この違いはどこから来るのでしょうか?

 

子ども自身の性格の問題?

親自身の問題?

 

これについても少し考えてみたいと思います。

 

子どもが聞こえることを利用する親 

これは私が実際に見た話ですが、

ある飲み会に子どもを連れてきた聞こえない親がいました。

その親は、子どもに店員さんへの注文などの通訳をさせていました。

 

そして、子どもが通訳を間違えたり、また店員さんが「おかわりはいかがですか?」とみんなに話しかけているのに気づかなかったりすると

その子どもを叩いて

「ちゃんと聞け!!みんな耳が聞こえないんだ!!お前がやれ!」

と怒っていました。

 

それを見て、これはちょっと違うんじゃないか・・と思ったのを覚えています。

 

ただ、残念ながらこのように

「子どもの耳が聞こえるのを利用して色々と押し付ける親」

 もやっぱりちらほら見かけます。

 

これについては親自身の考えもあるかもしれませんが、

子どもにとっては

「自分はそのために生まれてきたんじゃない」

と思うかもしれません。

そして、そこから親を疎ましく思い、また、「聞こえる方が良かったのに」と思うようになるかもしれません。

 

ちなみに、私個人としては、子どもは親の通訳をするために生まれてきたのではないと思っています。

(★ただし、子ども自身が「通訳したい!」と自発的にやってくるのならそれは子どもの気持ちを尊重すれば良いと思いますが)

 

子どもに誇りを持ってもらえない親

これはあるコーダの人の話ですが、

 

「子どものころ、親のことが嫌だった。

親はいつも、自分が聞こえないということに嘆いていた。

そして、いつも私にこんな親でゴメンねと言っていた。

最初は大丈夫だよ!そんなこと関係ないよと言っていたが、いつもいつもネガティブなことばかり言ってくるから、次第にうっとうしく思うようになってきた。

そして、そういう親を誇りに思えなくなってきて、避けるようになってしまった。」

 

やはり、親自身が「自分は聞こえない」ということを受け入れ、それに対して堂々としていればその姿は子どもにとって勉強になることもあるかもしれません。

でもそうではない場合・・・やはり、親に対して疲れてくることもあるのでしょう。

 

これは聞こえる聞こえないに関係なく誰に対しても言えるのですが、

親の人格や人間性、性格など・・・

様々な面を見て、その上で

「私の親はすごい!」

「私の親は素晴らしい」

と思うようになると、親がどんな人間であってもどんな仕事をしていても関係なく、親のことを誇りに思えるようになりますよね。

 

実際、私も、昔父が清掃業をしていたことで

 

「ゴミ臭い父はイヤか?」

 

と聞かれたことがあります。

 

でも私は父のことを誇りに思っていたし大好きだったので、

 

「全然そんなことない。かっこいいよ!」

 

と言っていました。

 

この2つから考えても、

コーダの子が聞こえない親を嫌がるのは、親にも原因があるケースも否定できない・・ということも言えます。

 

 

コーダの子自身も考えてほしい

ここまでで体験談や私の考えを織り交ぜながら、コーダの子が親を嫌がる原因について書いていきました。

 

その上で、大きく分けて「社会」「親自身」に原因があるのでは、ということを書きました。

 

ただし、だからといって子ども自身に原因はないのか?というと、答えはNOです。

もちろん、子ども自身にも原因がある場合もあります。

 

例えば、周りの環境が好意的であって親自身も人格に問題がない場合でも嫌がるコーダはいるようです。

 

これは、コーダ自身が「聞こえないということはどういうことか?」を理解できていない場合、また、分かっていても子ども自身が親を見下している場合も多いようです。

 

(ただこれは、親自身が子どもに対しての説明が足りなかったり、親自身が子どもとちゃんと向き合ってこなかったということも考えられますが)

 

これについて、こういう問題も起こっています。

 

聞こえない親を馬鹿にする

親が聞こえないことを馬鹿にして、皆でテレビを見ているのにわざと字幕をつけなかったり、その上で親が「字幕も付けて欲しい」と言っても「邪魔だから」と拒否したり。。ということもあるようです。

 

また、友達の目の前でわざと親に声だけで話し、親が「何言ってるの?」と手話で聞くと、その手話を指差して友達に対して

「見て!変でしょ?」と言い、笑ってバカにする子もいるようです。

 

手話通訳を嫌がる

また、親が手話通訳を連れてくることを嫌がり、

「手話通訳を連れてくるのはやめて!頑張って口を読み取ればいいでしょ!」と言ったりすることもあるようです。

(これは周りの目が気になるから、また、親は聞こえないということを受け入れたくないというのもあると思いますが)

 

これらについては親と子の信頼関係に繋がる問題で、ひいては家族全体に問題にもなると思います。

なので、早急に家族で考えて解決していく必要がある。。と思います。

 

特に手話通訳に関しては、

参観日などの時の手話通訳がないと親は授業中の先生の話や子どもたちのおしゃべりなどが分かりません。

それに、例えば親が口話や発音が出来ていたとしても、それだけで授業の様子が分かるか?というとそれは100%無理な話です。

(比較するのはおかしな話ですが)片耳難聴の人でさえ、無理なことのです。

 

なぜなら、いくら口話が出来る親であっても、

口話ができるからといって相手の話が100%分かるわけではないからです。

また、参観日という場は一対一ではなく、授業中の先生の話、またそれに答える子どもたちの声、そして周りの親たちの話など・・・

様々な声があちこち飛びかっています。

そしてその様々な声から聞こえる親は色々な情報を得ていくのです。

そしてそこから我が子が本当は普段どんな風に過ごしているのか?を理解します。

でも、口話だけだとそれは絶対に無理なことですよね。

 

だからこその手話通訳なのですが、

「周りの目が気になる」

「恥ずかしい」

という理由で拒否されると、それは親にとってはわが子の学校内での生活の様子を把握できないということに繋がってしまいます。

 

そしてこれは親としては大変困ることであり、悲しいことでもあります。

 

恥ずかしい・・という子の気持ちは分かりますが、その辺りは聞こえない親も子供としっかり話をして、お互いの落としどころをつけてほしいな。。。と思います。

また子ども自身も、親に対して遠慮せずに言いたいことはちゃんとぶつけてほしいなと思います。

 

最後に:コーダの会の紹介

今回、コーダの子にも色々な問題があることをまとめてみました。

最後に、コーダの子がこの記事に行きついた時のために、このページを紹介しておきます。

 

コーダが主役となって作られた団体があります。

marblemammy.wixsite.com

 

もし、親が聞こえないということで悩んでいるコーダがいたら、ぜひこの会に連絡してみてください。

 

コーダの子はなかなか同じ立場の子と出会う機会がありません。

また、「自分のように親が聞こえないという人は他にいないだろう・・」と思ってしまっているケースもあります。

 

また、同じ立場の人がいるということを知っていても家が離れていたりしてなかなか会う機会がないということもあります。

 

そういう方々のために作られた集まりでもあると思いますので、

もし気が向けば少し覗いてみてはいかがでしょうか。

 

また、コーダから聞こえない親に対しての声も載っているようですので、聞こえない親も自分の子だけでなく他の親の子がどう感じているのかを色々と知るためにも、ぜひページを覗いてみてはいかがでしょうか。

 

それでは、今回はここで終わります。

 

聞こえる夫に手話やろう者などへの考え方を聞いてみた

 

聞こえる夫に色々と質問してみた

私は耳が聞こえない。夫は耳が聞こえる。

今回は色々と考えることがあったので、夫に色々と質問してみた。

その夫の答えをここにまとめておきたい。

 

夫にとっての「私」

まず、夫にとって、私は人生で初めて出会った「ろう者」。

もちろん、私と出会って初めて手話を「見た」。

そしてろう者の存在を知った。

 

それまでは「耳が聞こえない人がいるということは知っていたが、それはテレビの向こうの世界であり自分とは別世界の存在」と思っていたとのこと。

 

そして、決して交わることはない、と思って生きてきていたが、ほんの少しの偶然で私と出会い、そこから大きく人生が変わったと言う。

 

もちろん、私と出会ってから手話を覚えたわけであるが、

その時の夫にとって「手話」というのは「私と話すためのコミュニケーション手段」であったとのこと。

 

そしてそれは今も変わらない、と夫は言っている。

 

それはそれで構わないのだが、では、夫はろう者や手話についてどう考えているのか?気になり聞いてみた。

 

もし私が発音が出来ていたらどうなってた?

私は発音ができない。

そのため、というのはおかしな話だが、普段は手話と筆談で生活している。

(おかしな話、と書いたのは、手話は発音が出来ない人のためのものではないからです)

 

そこで、夫に聞く前に、「私自身がもし発音が出来ていたら・・?」を想像してみた。

でも、分からなかった。

 

手話は何のためのもの?

昔の私は

「発音が出来ないから手話を覚える」

「手話は発音が出来ない人のためのもの」

と思っていた。

 

でも今は違う。

 

発音が出来ていようが、できていなかろうが、それとは関係なく手話は手話であり、楽しいものである、と思っている。

 

実際、手話があればこのようなことが可能になる。

 

1:きこえない人同士コミュニケーションが取れる

2:聞こえる人も手話を覚えていれば会話がスムーズになる

3:通訳も手話通訳というものを利用して多くの情報を得ることができる

 

メリットだらけなのだ。

 

ではもしこれが

【発音が出来る人は手話は不要、できない人は手話必要】

という世界であればどうなっていたか?を考えてみた。

 

現実としては、「発音が出来ていても聞こえない」という人は多い。

(発音ができる=障害が軽い、と決まったわけではないから)

そういう人は喋れたとしても相手の話が分からない(分かりづらい)ままになっていただろう。

 

また同じきこえない人同士でも発音が出来る人と出来ない人とでコミュニケーションが取れないことになっていただろう。

 

なので、「発音ができる=聞こえる(障害が軽い)と決まったわけではない」ことも多いからこそ、一概に

「発音ができるから手話は不要」とは言えないのである。

 

でもこれが分かっていない人はまだまだ多い。

実際、発音が出来ているから聞こえてるんだ、と思ってしまう聴者はとても多い。

そしてそれによって困っているろう者難聴者も大変多いと聞く。

 

ただ、これはきっと、私が発音ができないからこそ考えることができた、ということで、

もし私が発音が出来ていたらここまで考えることはなかった・・かもしれないし、考えたかもしれない。

それは分からない。

 

・・・ということで、

自分でも分からないのに、夫に聞いてみるのもいかがなものか、と思ったが(笑)

とりあえず夫に聞いてみた。

 

「私がもし発音ができていたら、アナタはどうしていた?」

 

なんとあやふやな質問なのか、と思ったが(笑)

 

夫はこう答えた。

 

「それはそういう状況になってみないと分からないなー。

でも自分は聞こえる立場だから、自分に合わせて頑張って喋ってほしいとは思わない。

まみが手話を必要としていればもちろんそれに合わせていたと思うよ。」

 

なるほど。

ここがキュンとしたポイント。(笑)

 

 聴者に合わせるために手話をしない人については?

次に、夫に私の知人を例に挙げて話した。

 

知人が手話は要らないと言っている理由

知人は発音が出来るけど、補聴器を使ってでも人の話は聞こえない。

そして手話を使うこともある。

 

ただ、その知人は、

「私は発音が出来るから、聴者に合わせて聴者の世界の中で生きていくためには手話は要らない」

という考え方を持っている。

 

その理由として、

1:聴者の世界の中では手話ができない人の方が多いから

2:聴者の中には「手話は面倒」と思っている人が多いから

3:私自身が発音ができるから、発音が出来る方が聴者は喜んでくれると思うから

を挙げている。

 

そして、知人は「自分が頑張って相手の口を見て話を読み取る方が聴者に喜んでもらえる」と思っている。

 

更に、別の知人の中には「自分は発音ができるから、発音が出来ない人のことを馬鹿にしている」人もいる。

 

 これについて、夫に

 

「こういう人がいるってことは、この人にそう思わせてしまった聴者社会も悪いんじゃない?

こういうことがあるからこそ、やっぱり発音が出来る方が何かとお得だと思ってしまう人もいるわけだし。」

 

と話してみた。

 

そして、

「実際に聴者社会の中では、会社の面接で発音が出来る人と出来ない人がいたとすると、会社としては発音が出来る人を採りたいと思うし、実際発音が出来る方を採ることが多いこともある。」

ということも話した。

 

すると、夫の答えは意外なものだった。

 

発音が出来るかどうかで判断すること自体が色々と間違っている

 夫の答えはこうだった。

 

まず、「会社としては発音が出来る方を採りたいだろう、だから発音が出来ていた方が何かとお得だ」という考え方は違うと思う。

なぜなら、最終的に会社にとって大事なのは仕事が出来るかどうかであり、実際、発音が出来ていてもそれだけで、結局は仕事はできないという人もいるだろう。

逆に発音ができなくても仕事はバリバリ出来るという人もいるだろう。

更に言うと、発音ができていても、その会社の仕事がその人に合うかどうかも大事になってくるよ。

従って、「発音が出来ない人よりは出来る人の方を採りたい」と考えてる会社も「発音ができる=仕事ができる」という見方は間違っている。

なので、長い目で見ても、「発音が出来ていた方がお得」という考えはどちらも(会社側も聞こえない人の側も)間違っている。

 

そう思わせてしまった聴者社会が悪いのでもない

そして、「こういう人がいるってことは、この人にそう思わせてしまった聴者社会も悪いんじゃない?」とまみは言っていたけど、それは自分は違うと思う。

 

その知人は、今までずっとそういう世界の中で生きてきたわけで、その中でそういう考え方になった。

その人の育ちやその人の家庭環境も大きいと思うし、そこからそういう考え方になったからこそ、かえって周りにはそういう聴者(=手話はいらない、手話は面倒くさいと言う聴者)しか集まってこなくなった・・とも言えるんじゃないかな?

だから、その人にそう思わせてしまった聴者社会が悪いんじゃなくて、その人自身がそういう考え方で育ってきたからその考え方に賛同する人が周りにいるだけ。

その人が子どもだったら、そうなったのは親や周りの人たちの責任になるけど、今いい年をした大人ならば、いくらでも変わるチャンスはあったと思う。

それでも今もまだそのまま、ということは、色々な人と出会い色々な考えを知ることをしてこなかったということ。

または、そのチャンスがあっても「自分が一番正しい」と思い込んでしまい他の考えを聴くのを拒否してしまったんじゃないかな?

だから、特に発音が出来ない人を馬鹿にするという人なんかは、聴者社会が悪いのではなく、その人自身の性格の問題もあると思う。

 

更に、その人は、自分がいる世界が全てだと思っているのかもしれない。

それで、他の世界を見ようとしていないのかもしれない。

 

でも、その世界の中でその人が満足しているのであれば、それでいいと思う。

また、他の世界も知った上で、それでもその世界(手話は要らない、聞こえない人の方が頑張って聞こえる人に合わせていく方が喜ばれると思っている)が良いと思うのであれば、それでも良いと思うよ。

こちらとしては、「その世界の中であなたは頑張ってやっていってください。」と言うしかない。

 

聴者の立場からするととても不愉快に感じる

それに、全ての聴者がそういう人ばかりだと思う?

違うよね?

手話は要らない、手話は面倒と言う聴者ばかりじゃないよね。

 

それなのに、最初から

「聴者は手話はいらないよね?

聴者は手話がない方が楽だよね?

聴者は聞こえない人は発音が出来ていた方が楽だと思っているよね」

と決めつけられて、その姿勢で来られても困る。

 

自分は、そういうのはあまり気分がいいものじゃない。

 

 ・・・と、夫は答えた。

 

私は「確かに、発音が出来ていた方が何かと良いことは多いのかもしれないね~」とかいうような返事が来ると思っていたからびっくりした。

 

一番大事なことは何かを考えた方がいい

 

そして、この話を思い出した。

お互いに確実に通じる方法があるかどうかが一番大事

少し前に、夫と私は手話のことで色々と話したことがある。

具体的には、日本手話と対応手話について。

 

その時に、夫は私にこう言っていた。

 

「自分は、対応手話とか日本手話とか、その違いはまだよく分かっていないかもしれない。

それに、やはり今も、手話というのはまみと話すための手段だと思っている。

 

だけど、それでも自分が一番怖いと思うことがあって。

それは、いざ!という時にまみと会話が出来なくなること。

まみが自分に言いたいことをちゃんと伝えられなかったり、また、自分が言いたいことがまみにちゃんと伝わらなかったりすること。

これが自分にとっては一番怖いことなんだよ。

 

なので、一番大事なことは何か、というと、

お互いに確実に通じる方法があるというものを持っているということなんじゃないかな。

それがあれば、本当は自分は対応手話でも日本手話でもどちらでもいいと思っている。

ただ、まみが日本手話の方が分かりやすいというのなら、自分はもちろんまみに合わせて日本手話も読み取れるようにしたいと思う。」

 

・・・と。

 

まとめると、夫は

「自分は聞こえるから、聞こえない人に合わせていく」

という考え方の人であり、その上で相手が日本手話を求めていればそれができるように努力していきたいし、対応手話の方がいいのならもちろん対応手話ができるようにしていきたい、と考えているということ。

 

口の読み取りだけでは聴者としても不安になる

更に夫はこう言っていたことがある。

 

「もし、まみが口の読み取りだけで生きてきた人間だとしたら、自分は最初は楽だな、と確かに思うかもしれない。

でも、きっと、まみと色々と話していくにつれて、「口を読み取ってもらうだけでは怖いなー」と思うようになったかもしれない。

口の読み取りって限界はあるし、例えば、大事なことを話すときに「完全に伝わる」安心感がないっていうの、怖いことだよ。

それに、相手はちゃんと読み取った!と思っていても、それが実は間違っていたり。。ということだってあるでしょ。

この状態で大事なことを話すっていうの、すごく怖いことだよ。

だから、むしろ、口を読み取ってもらいながらそれだけで会話するのはちょっと遠慮したいな。

それだったら、一緒に手話を覚えていった方がいい。」

 

 

聞こえる人の方からも歩み寄るべき

そして、夫は過去にもこう言っていたことがある。

 

「自分は聞こえるから、頑張れば手話でもなんでも覚えられる立場。

でも、聞こえない人は、どれだけ頑張ってもどんなに努力しても聞こえるようにはならないし、頑張って練習しても発音がうまくならない人もいる

聞こえも発音も聞こえない人にとっては誰でも練習を積み重ねれば必ずできるようになる、というものではない。

だから、聞こえない人だけに努力を押し付けるのではなく、聞こえる人の方も努力して歩み寄るべきだと思う。

 

実際、今は手話を覚えようとしてくれている人も増えてきているし、手話は出来なくても筆談で対応しようとしてくれている人も増えてきているよね。

その他にも例えばまみに対して色々な方法でコミュニケーションを取ろうとしてくれている人もいるよね。

だから、聞こえない人は、例えば発音ができないことや聞こえないことに目を向けるのではなく、そういう人たちが増えてきているということにも目を向けて色々と考えた方がいいと思う。」

 

これを聞いて、私は素直に嬉しく思った。

そして、こういう人がもっともっと増えてほしい、と切に願った。

 

まとめ

今回は夫の話だけで私なりの考えは述べないが、

この夫の言葉から色々と考えることもあった。

 

それでも、夫のような考えは受け入れられないという人もいるだろうし、それはそれで構わない。

ただ、こういう考えを持つ聴者は実はろう者が思っているより多いのではないか?と思ったのと、

 

「聴者は手話は要らないと思っている人が多いから・・」

「聴者は手話は面倒だと思っているだろうから・・・」

 

と思ってしまいそのために自分から聴者に合わせるために頑張りすぎてしまう人がいれば、それは違うのだということを知ってもらいたいと思ったのでこのブログを書いた。

 

ただ、これについては

「手話をする人はカッコ悪い」

「聴者と一緒にいることで優越感を得たい」

などの理由で聴者にすり寄って優越感を得たいという人と、

「聴者に気遣って聴者のために頑張って合わせていく人」

はまた違うことも書いておきたい。

 

そして後者の人の方が自分を抑えて頑張りすぎたあまり鬱になってしまったケースもあるので、そういう人は早く自分の考えを改めてほしいなと思う。

前者の場合は、「自分がそうしたいならそれで構わないが、後々自分が苦労するかもしれないよ」と思う。

 

最後に

ただ、夫とここまで色々と深い話ができたのは、やはり手話のおかげだと私は思っている。

 

というよりも、私が手話と出会い、手話の魅力に触れることができたから。

そして更に夫が私と手話で会話ができるように頑張って覚えてくれたから。

 

手話の存在があったから、また、夫が手話を覚えてくれたから、私たちは手話を使って色々と会話することができた。

 

もしこれが筆談や口話(聞こえる人の口の形を読み取って話を理解する方法)だとここまで話せなかったかもしれない。

 

ちなみに、ここまで書くと

 

「でも、旦那さんは手話ができるからそう思ってるだけじゃないの?」

「手話ができない聴者はそこまでは考えないと思うよ」

 

と言われそうなので、あえて付け加えておく。

 

夫は実はそこまで手話バリバリではない。

実際は、自分で手話で表すことはできても読み取りの方がまだまだで、ほぼ私の手話しか読み取れない状態である。

 

つまり、

手話ができるできないは関係なく、

こういう考えを持つ聴者もいる、ということ。

 

 

ここまで読んでくれてありがとうございました。

発音が出来て良かった!と言う人たちへ。

 

時々、「あー、私発音が出来て良かった~」と言っている人を見ます。
それはそれで別に構わないと思います。

 

でも、ちょっと待って。

 

「発音が出来て良かった」という言葉をもう少し振り返ってみませんか?

あなたはなぜ、「発音が出来て良かった」と思ったのでしょうか?

ここではそれについて私が思っていることを書いていきます。

 

発音が出来て良かった!という言葉には様々な社会問題が隠れているね


まず、「発音が出来て良かった」というのはどういうことか?

分からない人もいると思うので簡単に説明します。

 

これは具体的には、聞こえない人たちまたは聞こえない子を持つ親から発せられる言葉なのですが、聞こえない人の中には「発音ができる人」と「発音ができない人」がいるのです。

 

そして発音ができる人またはその親から「あー、発音ができてて良かった!」という言葉が出るということです。

 

そして一般的には、発音ができるようになるかどうかは小学校に上がるまでの段階でほぼ決まってくるのです。

 

ではここからは、聞こえない子が小学校に上がるまでの流れを簡単に説明します。

 

聞こえない子が小学校に上がるまで

 

ここからは聞こえない子が小学校に上がるまでの過程を簡単に説明させていただきます。

 

生まれた時

 

耳が聞こえないor聞こえにくい人は、まず生まれた時、または「あれ?なんかこの子聞こえてないんじゃない・・・?」と親が気づいた時から病院で診察を受けます。

 

聾学校または言葉の訓練施設での訓練

その時点で「聞こえない(聴覚障害がある)」ということが分かった時から聾学校、または言葉の訓練をする施設などに通います。
そしてそこで「発音の訓練」「聴覚訓練(補聴器を使って聞く訓練)」などを受けます。
それは大体2歳~6歳まで続きます。


何故そうする必要があるのか?ということは、

まず、

「聞こえる子どもはなぜ誰からも教えてもらっていないのに自然と喋れるようになるのか?」

ということを考えると分かるかと思います。

 

聞こえない子が自然と発音できない理由

ここで、聞こえる子どもたちは当然、赤ちゃんの時から聞こえていますよね。
そしてそこから自然と周りの人、特に親から話しかけてもらったりなどで自然と言葉を覚えていきます。
そのため、2歳ごろになると誰からもやり方を教えてもらっていないのにいつの間にか話せるようになっているのです。

 

でも、聞こえない子どもはそれができません。
そのため、大体2歳ごろから発音の練習をすることが必要になってくるのです。

 

また、この2~6歳の段階でその子のおおよそのことが決まってくることが多いようです。
例えば発音がうまいか下手か、また補聴器でどれくらい耳で聞きとれるかどうかなど・・・。

 

子どもの進路は発音の優劣と関係ない

 

その後、その子の状況や周りの環境に合わせて聾学校の小学部または地域の小学校などに進むことになります。


ただし、発音が下手だからといってその子は地域の小学校に行けないとかそういうことはありません。
またそれと同じで、発音がうまいからといってその子は必ず地域の小学校に行くべき、ということも決まっていません。


・・と、前置きは長くなってしまいましたが、発音ができるかどうかは子どもたち個々の状況によって変わってくるのです。

 
なので、発音ができるできないがその子の進学に大きく影響することはありません。

 

実際、私は発音はできませんが、6歳まで聾学校に通ったあと地域の小学校に入ることになりましたし。

 

では、ここからはいよいよ本題、なぜ「発音が出来て良かった」という言葉に様々な社会問題が隠れているのか?を私なりに考えたことを書いていきたいと思います。

 

発音が出来て良かったと思うような社会が問題

 

まず、今の日本は音声主義で、とにかく「音声」が全てになっています。
そして、【とにかく話すことができなければやっていけない・・】という場面が多すぎると感じています。

 

インターフォン

その分かりやすい例がインターフォン。
例えばATMでトラブルが発生した時、周りに誰もいないと発音ができない人は困ります。

なぜかというと、そばにインターフォンがあっても受話器を取って


「トラブルが発生しました。
ちなみに私は耳が聞こえませんので、あなたの言っていることは分かりません。
なので、すみませんがとにかくこちらまで来てもらえますか?」


ということをお話しすることもできません。

 

エレベーター

またエレベーターにも同じことが言えます。


エレベーターが故障しても、連絡手段はエレベーターに備え付けているインターフォンのみです。
そのインターフォンにモニターが付いていればまだ良いのですが、ついていない場合は大変困ります。

 

・・・と、このように、今の日本は「喋れて、かつ、聞こえる」ということが前提となって作られていることが多すぎます。

 

人とのコミュニケーション

あとはもちろん、人とのコミュニケーションも発音が出来ていないと大変なことは多いですよね。

 

例えば手話を知らない人たちが多数派だからというのもそうですが、それ以外にも


「筆談が面倒くさい」
「口の形をじっと見られるのが嫌」

 

など・・・
様々な理由で聞こえない人と会話すること自体を敬遠する人も少なくありません。

 

このことからも、皆さん、

 

「発音が出来るようになっていた方がいい」
「発音が出来てて良かった!」

 

と思ってしまうのは無理もないと思います。

 

ただ、そこで終わっても良いのでしょうか?

 

実は、これらは全て「問題である」のです。

 

つまり、「発音が出来る人を基準にして作られた仕組み」こそ、差別とも言えるし問題視しなければならない重要なことなのです。

 

そういう日本を、「こういうもの」「これが当たり前」として、「問題視していない」ことの方が問題ではないかと私は思うのです。

 

驕りが生まれることが問題

ここからはもう一つの問題について書いていきます。

 

「驕り」

 

驕りという言葉は、見下しを生むことがあります。

つまり、「驕り」と「見下し」はセットになると思っています。

 

ここからは具体的にどんな問題があるのかを書いていきます。

 

子どもたちの「驕り」

聞こえない子どもたちは小さい時から

 

「発音がうまい方が良い」

 

ということを周りの大人たちから教えられて育った子も多いため

発音が出来る子はできない子をいじめたり、見下したり・・ということも起こっています。

 

親の驕り

また、親も、

 

「子供さんの発音がうまくならなければ、この社会を生きていくのは難しい」

 

というプレッシャーをかけられ、何が何でも発音がうまくなるようにしなければ!と思い子どもに厳しい訓練を強いたりすることがあります。

 

また、発音が下手な子の親に対して態度がでかくなったり、偉そうにしたり。。という現象を生み出すことがあります。

 

父親の収入によって奥さんの世界でも格差が起こると言いますが、あれと同じで子供が発音ができるかどうか?でも格差が生まれていることがあります。

 

(注意:昔はそうでしたが、今は違うかもしれません)

 

このように、発音ができるかどうかによって人間関係が大きく変わったり、また、子どもや親などの心をゆがませてしまったりということもあちこちで起こっています。

 

聴者への影響も大きい

更に言えば、こういう状況を通して他の何も知らない聴者からは

 

「手話というものは発音が出来ない人のためのものなんだ」

 

と思われてしまうということも起こっています。

 

つまり、発音が出来る人が「私は発音ができるから手話はいらない」と言ってしまい、それを聞いた聴者が

 

「なるほど、手話は発音が出来ない人のためのものなんだな」

 

と誤解してしまうことがある、ということですね。

 

そして更にそこから、別の場所でも

 

「あなたは発音ができるから手話は必要ないんだよね?」

 

と実際に手話を必要としている人に言ってしまう。。。

ということも起こりえます。

 

発音ができるかどうかでその人が決まる、というような考え方は意外とこんなに多くの弊害を生んでいることもあるのですね。

 

それによって社会に歪みが起きていることも事実です。

 

これも、今後考えていかねばならないことだと思います。

 

さて、話は戻って。

ここまでで、「発音が出来て良かった!と思うような社会がなぜ問題なのか」について、実際の問題点を大きく2つに分けて書いてみました。

 

ここから、「では、一番大事なことは何か?」を書いていきます。

 

大事なことは発音ができるかどうかではない

本当に大事なことは、「発音ができるかどうか」ではないのです。

 

それよりも、

 

「発音が出来てて良かった!」

 

と思うだけで終わってしまい、

 

「自分がなぜ発音が出来て良かった!と思うのか?」

 

というところまで考えて、社会問題に気づかないこと・・・

そっちの方が問題ではないかなと私は感じています。

 

もちろん、発音が出来ることは別に悪いことではありません。

また、社会問題に目を向ける向けないも本人の自由です。

 

ただ、そこで驕ってしまい、発音が出来ない人を下に見たりしてしまう。。。


そっちの方に目がいってしまい、肝心の「発音が出来ていないとやっていけないような社会」に目を向けることをしなくなる。
繰り返しますが、こっちの方が問題だと私は思うのです。

 

まとめ


まとめると、

 

発音が出来る人も出来ない人もお互いに思いやること。

発音の優劣だけで人を判断してはならないということ。

 

それだけでなく、

 

発音ができないと生きていけないような社会に問題意識を持つこと

発音が出来る出来ないに関係なくみんなが暮らしやすい社会を作ること

 

・・・こちらの方が実は「発音ができるかどうか」よりもずっとずっと大事なことであり、今後の社会に必要なことではないでしょうか?

 

当然、社会問題に目を向けるか向けないかも本人の自由なので、必ずしも「社会問題に目を向けないのはダメ」と言ってるわけではありません。

 

ただ、発音がうまいことに目がいきすぎてて

 

「あー、発音ができてて良かった!」

 

と思うだけで終わるのはちょっと違うかなと思うのです。

 

そして、発音ができない人を見下すのではなく、

思いやりを。

 

では社会問題に対しては具体的に何をすればいいのか?とあなたが思った場合。。

それはご自分で一度、試しに考えてみませんか?

 

きっと、発音が出来て良かった、だけで終わっている人たちは、問題意識を持たず、また自分で考えることも今までにしてこなかったという人が多いと思うので、

まずは自分で考えることからスタートしてみてはどうかな?思うのです。

 

また、聞こえない子を育てる親たちも、

 

発音ができるかどうかで人の優劣を決める子に育ってしまわないよう、

また、思いやりがあり問題意識を持つ子に育つよう、

 

親の方でも子育てに気をつけてほしいなと思っています。

 

改めて。

 

発音が出来ることが全て・・・

これは本当にそうでしょうか?

 

それでは今回はここまでで終わります。

 

 

聞こえない人は大変!聞こえてて良かったと思うのは罪ではないけど

こんにちは。 ここでは、私が日頃から気になっていることを書きたいと思います。 主に健常者に問いたい内容となっています。

_____ 

今はTwitterやFacebook等色々な方法で様々な方々の発言を知ることができるようになりました。

それに伴い、自分が知らなかった世界、、例えばろう者難聴者の世界、またその他の障害者の世界なども知ることができるようになりました。

するとあなたは、例えばろう者が社会の中でこんなことに困っている、こんなことがあった…など色々な発言を見ることもあるでしょう。

それを見たあなたはこう思ったことがあるのではないでしょうか?

 

「うわ、大変だな」

 

そしてあなたは次にこう思うのではないでしょうか。

「聞こえてて良かった」 「やっぱり聞こえる方がいいよね」

  ですが、そう思うことは否定しません。 それはあなたの自由な思考なのだから。

 

でもだからといって、そう感じたことをそのままにするのはもう少し考えてほしいのです。

というのはどういうことなのか…?を、これから話していきたいと思います。  

まず、結論から言います。

「聞こえないのって、大変そう・・・」 「聞こえてて、良かった」

あなたがそう思うのは別に悪くはありません。 ですが、では、なぜあなたは「聞こえないのは大変」だと思うのでしょう?

それは、一概に

「今の社会は聞こえない人が生きていくのに大変な仕組みになっているから」

ではないでしょうか?

そして、そういう社会は誰が作ったのでしょうか?

 

それを考えもせず、 「聞こえないのって大変だ。やっぱり聞こえる方が良い」 と単純に思うのは少し違うのではないかな?ということです。

 

それよりもまず、 「聞こえなくて大変な社会」を 「聞こえなくても大変とは思わない社会」 にするために皆さんで考えていくことの方が大事なのではないでしょうか?

  そうです。 聞こえてて良かった~、だけで終わると、 聞こえない人も聞こえる人もどちらも楽に生きられる社会を作ることはできないよね?ということなのです。

今回は短いですが、ここで終わります。

 

 

 

 

濱田裕太郎さんの優勝を受けて今の海外と日本のテレビ事情を考えてみた

盲目の芸人 濱田裕太郎さんの登場は今後のテレビ業界にどう影響するか

R-1ぐらんぷりで盲目の芸人、濱田裕太郎さんが優勝したとのこと!おめでとうございます!

1

 

似てないと思うけど濱田裕太郎さんを書いてみました笑

 

ここでは、聴覚障害ネタとは少し違いますが、似通っている所はあると思うので濱田裕太郎さんのことを取り上げてみました。

 

R-1ぐらんぷりではどんなことをやったのか

それでは、濱田裕太郎さんはR-1ぐらんぷりではどんなことをやったのでしょうか?

2

 

もしかしたら昨日はたまたま字幕があったのかもしれないけど、いつもはないことが多いのです(><)

 

ちなみに、Twitterの方で文章起こしをしてくれた方がいますので、その方のツイートを載せておきます。

 

 

自分の障害をネタにして笑いを取っている

え!?これって、いいの・・・?

差別じゃないの・・・?

 

真っ先にそう思う人は多いでしょう。

でも、文字起こしを読む限りでは、「なんでやねん」とツッコミたくなるような明るい笑いが多いですね。

 

自虐的な笑いではないところがとても良いなと感じました。

 

また、濱田祐太郎さんがR-1ぐらんぷりで盲学校の様子をネタにしたことで、

「へえー、盲学校ってこんなんなんだな」

「目が見えない人の暮らしってこんなんなんだー」

ということが笑いを通して伝わったという人は多いと思います。

 

普段、健常者はあえて見たり聞いたりしない限り、障害者の暮らしを知る機会はありません。

特に、今の日本のテレビや映画の事情を考えるとそれは顕著だと思います。

(これについてはこれ以降に書きます)

 

なので、そういう意味では、「障害者の暮らしを知ってもらう」という面でもすごく良かったと思っています。

 

もしかしたら今後のテレビが大きく変わるかも?

また、今回、濱田裕太郎さんが優勝したということは、もしかしたら今後のテレビの世界が大きく変わる出来事かもしれないと感じました。

 

 それについて以下、書いていきます。

 

日本と海外のテレビ・映画事情の違い

現在、日本と海外のテレビや映画の事情、特に日本と海外では障害者の取り上げられ方も色々と違うことはご存知でしょうか?

(ただし、海外は全てがそうとは限りません。やはり国によって色々と違います)

 

海外の場合

海外(主にアメリカ、ヨーロッパなど)ではこのようになっています。

 

3

 

海外では、例えば

 

「ライ・トゥ・ミー」
「CSI」
「BONES」

 

など・・・

色々な映画やドラマでは当たり前のように障害者が出てくるのです。


それも、「可哀想な障害者」ではなく
「クラスメート」だったり
「先生」だったり
「お母さん」だったり
「面接に来ている学生」だったり・・・
時には「殺人犯」だったりすることもあります笑

 

つまり、普通にそこら中にいる当たり前の役を障害者もやっているのです。

そのおかげで、テレビや映画を見ている人はモニターを通して「障害者もそこら辺にいる普通の人間なんだ」ということが刷り込まれていくのですね。

 

ところが、日本ではどうでしょうか?

 

日本の場合

4

 

障害者の役は本当は障害者本人がやった方がリアリティがあると思いますよね。

しかし、日本では健常者が障害者の役をやることが一般的となっています。

 

また、他にも障害者本人が出られるのも例えば24時間TVだったり、障害をテーマにする番組がほとんどです。

バリバラもありますね。

なので、逆に言えば、日本人は障害者を普段から目の当たりにする機会がとても少ないということになります。

 

そりゃ、障害者に興味がない限り、 障害をテーマにした番組なんて自分からわざわざ見ようとも思わないですもんね。

また、障害をテーマにした番組はお涙頂戴も多いため、障害者=大変・可哀想と思ってしまう人も多いです。

 

それだけでなく、

「障害者を見たことがない」

「障害者って本当にいるの?」

「障害者はどこにいるのか知らない」

と言っている人たちも多いのです。

 

もし、海外のように普段から日常的にテレビや映画などを通して障害者を目の当たりにする環境があれば、そういったことは減っていたでしょう。

 

では、どうして今の日本では障害者がテレビや映画などに出られないという現状があるのかを考えてみます。

(厳密には、「出られない」のではなくて、一部では出ていることもあります)

この日本の事情が今の現状を作りだした?

 

それでは、なぜこのような現状が生まれたのでしょうか。

 

私自身は、障害者がテレビや映画に出られないという現状はこれらも原因なのではないかと考えています。



5 

 

★ただし、これは テレビや映画などのマスメディアが 障害者そのものを避けてきた結果なのか、

または 障害者そのものをタブーにしておくべきだ、と 思う人たちが多く、

それで テレビや映画などのマスメディアも 避けるようになったのか、、 どちらが先なのかは分かりません。★

 

★また、

「障害者をテレビや映画に出すということは 見世物にする、ということだからダメだ」 と考える人や

「マスメディアに出すと視聴者が 障害者を笑うかもしれないから かわいそうだ」 と思う人もいて、

その結果タブー視されてきたということもあるかもしれません★

色々とややこしいですが、まとめると、

「障害者は触れてはいけない存在」
「そっとしておくべき」
「差別してはいけない」


などの気持ちが先走ってしまい、
結果的に【障害者の存在そのものを社会からゴッソリ消してしまった】みたいになってしまったのではないでしょうか?

その結果、今こういう問題が起きています。

 

障害者を避けてきた結果このようなことが起こっている

テレビや映画などで「本物の障害者を登場させない」結果、以下のイラストのような問題が起こっています。

見てみると分かるのですが、これは「障害者を知らないから」起こっていることが多いですよね。

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ここまで読めば、「障害者をタブー視してきたこと自体が実は逆効果だったのだ」と分かると思います。 

 

これは、先ほども述べましたが、濱田祐太郎さんのように盲学校での授業の様子などをテレビで話してるのを聞くと「あ、目が見えない人はこんなんなんだな」ということが分かりましたよね?

このように、障害者がテレビに出ることでモニタを通して障害者の存在、障害者の暮らしなどを自然と知ることができるのです。

 

例えば、先ほど挙げた海外ドラマ「ライ・トゥ・ミー」も、

聴覚障害者が主人公の会社に面接を申し込むシーンがあります。

その時に、主人公は

「相手が耳が聞こえないのにどうやって話すんだ?」

と言い、周りの人が

「口を大きく開けてゆっくり話せばいいのよ」

と教えるシーンがあります。

(うろ覚えです。間違ってたらごめんなさい)

 

このように、普段からサラッと障害者を知ることが海外ではできているのですね。

このことからも【障害者をタブーとするのは逆効果なのだ】ということが言えますよね。

 

それでも、「やはり障害者はそっとしておくべきだ」と思う人がいたとしたら、その気持ちは大変ありがたいのですが、その結果、今まで書いたような問題が起こっているとしたら、それはとても不本意です。

実際に障害者差別は今もありますし、障害者が就職や自立などの面で拒否されたりというのも多いですから。

 

更に、「大人になってから障害者を初めて見た」という人も非常に多く、そういう人たちは「障害者に対してどうすればいいか分からない」という理由で必要以上に避けたり、逆に面白がっていじめたり・・・という人も多いです。

まさに、イラストの通りですよね。

 

もし日本でも海外みたいになったら・・・?

ここで、そういう日本でもし海外みたいに障害者が普通にテレビに出るようになったとしたら・・ということを考えてみました。

 

障害者の活躍の幅が広がる!健常者も障害者に慣れる!

まず、障害者の活躍の幅が広がります。

また、健常者も普段からテレビや映画などで障害者を見慣れることができるので、いざという時に困りません。


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障害者が当たり前のようにテレビなどに出るようになるとこんなに色々と前向きな効果がありそうですよね!

 

そして、「障害関連の番組」だけでなく、海外のように様々なドラマや映画で色々な役として出てもらえれば、先ほど書いた「ライ・トゥ・ミー」のようにさりげなく障害者への接し方を伝えることができそうですね。


もちろん、最初のうちは賛美両論あると思いますが。

でも、「慣れてくれればそれが日常のものになっていく」と思います。
そして、きっと「障害者は特別な存在ではない」という社会になっていくのではないかな・・・と思っています(*'ω'*)

 

ただ、そのためには

「テレビに出る」

「映画に出る」これさえできれば良い、訳ではありません。

 

以下の2点も必要になってきます。

 

障害者も役者の勉強ができる環境を整えること

 

もちろん、障害者がテレビや映画に出られるようにするためにはまず第一に、役者の学校に通ったりプロとして恥ずかしくないようレッスンを受けたりするための環境も必要になってきますね。

 

演技が下手でも「障害者だから仕方ないね」と言われるのは嫌だと思う障害者もいると思いますが、障害者だけが頑張るのではなく、環境自体も変えていく必要があります。

 

プロデューサーなども障害者への理解を!

またもう一つ、テレビ局側なども障害者への理解が必要になってきます。

 

特に今は、「テレビに出たい」と言ってくる障害者は実際にいると聞いていますが、それをテレビ局側が断っていると聞いています。

 

その理由として

「演技が下手」

というのもあると思いますが、

 

今までの日本の現状を考えると、

「障害関係の番組以外では障害者をテレビに出したくない」

というのもあるのではないかなと思うのです。

 

なので、そういう意味でも、

障害者がテレビや映画などで活躍するためにはやはりテレビ局側などの理解も必要になってきます。

 

まとめると、

 

「障害者が役者の勉強ができる環境を整える」

「テレビ局や映画側の人間の理解も必要」

 

この2つがあって初めて障害者が更に活躍できると思います。

 


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長くなっちゃいましたが、今後も応援しています!!

 

番外編:障害者と健常者をつなぐ唯一のものがマスメディア

 

ここでは、なぜ私が濱田祐太郎さんの優勝を受けてテレビや映画の実情について書いたのかをまとめておきます。

 

現在の日本の状況を簡単に説明すると、今の日本は義務教育の時点から障害者を切り離すやり方が取られています。

「切り離す」という言い方はきついかもしれませんし、国にとってはそんなつもりはないかもしれません。

しかし、現状を見ると、結局は「切り離している」ように思えてしまうのです。

 

例えば障害を持つ子は「特別支援学校」に行くべき、という考え方があります。

ただ、これについては、「障害の程度によってはその障害のレベルに合ったサポートが受けられる所に行った方がいい」という見方もありますので、これはこれで悪いことではありません。

 

しかし、義務教育が終わってからではどうなのでしょうか。

 

義務教育が終わり、自由に進路を選べるようになった時でも、社会は

「障害者はここで働きなさい」

「ここでしかサポートを受けられない」

など・・・

障害者に対して「働く場所」「暮らす場所」なども制限してきます。

 

そうやって、どんどん「健常者」と「障害者」が切り離されていくのです。

 

これについては、障害者にとっては自分の障害の程度に合わせてサポートを受けられるという良い面もあるので、一概に悪いとは言えません。

ただ、仕事や暮らし以外にももっと障害者と健常者が関われるようにできたら・・・と思うのです。

 

そのための唯一の方法が「テレビや映画などのマスメディアだ」と私は考えています。

 

それで、今回の記事を書かせていただきました。

それでは今回はこれで終わります。

 

「健聴者」?「聴者」?

画像は私のツイート画面。
twitterアプリの質問箱というのがあり、それを使ってみたらこういう質問が飛んできた。

 

つまり、一般的には聞こえる人たちのことを「健聴者」というのに、なぜあなたは「聴者」と呼んでいるのか?ということ。
(私だけではなく他にも「聴者」という言葉を使うろう者や手話学習者は最近増えてきてるけど)

 

実は私が「聴者」を使うようになったのは大学生の時。


当時の先輩がふと、

「どうして聞こえる人たちのことを健聴者って言うんだろうね?
「聴者」なら分かるけど、なぜ「健」なんだろうね?」
と言ってるのを聞いて、
「そういえばそうだよなぁ、、」と気になったのがキッカケ。

 

耳が聞こえる。
耳が聞こえない。
それ以外は何も変わらない。

 

だったら、「聴者」で良いんじゃない?
むしろ、「健聴者」の方が優生思想が含まれてる気がするの。
聞こえる方が上、聞こえない方が下、みたいな。

 

なので私はそれ以来、大学のときからずっと「聴者」を使うようにしてきていた。

 

これとは別にしても、言葉一つをとっても下手すると「見下し」にもなることがあるから、言葉の意味や使い方には気をつけていきたいな、と改めて思ったのでした。

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