あなたに伝えたい、世の中を生きやすくするために

ひとりのろう者からあなたへ

聴覚障害を持って生まれて生きて感じた社会の壁から合理的配慮についてあなたとともに考えていきたい

カード会社や銀行の本人認証、声に頼るのは差別ですよ

 

銀行やクレジットカードなどの「本人確認」はその多くが「電話」となっていますね。

これ、すごくやっかいです・・・。

 

声でどうして本人確認が取れると言えるの??

 

 ろう者・難聴者は、電話で相手の声を聞くことができません。

それなのに、クレジットカードなどの契約ではほぼ必ず「電話での本人認証」があります。

 

 これにはみんなウンザリしています。これはどういうことなのかを説明していきます。

某クレジットカード会社の例

ここでは、一例としてあるクレジットカード会社とのやり取りを挙げていきます。

 

某クレジットカード会社に、カードについてのお問い合わせをしたくて電話をかけたAさん。

この時、Aさんは電話リレーサービスを使って電話をかけました。

 

以下、実際にあったやり取りです。

 

=====

Aさん(Skypeで文章を送っています)

「〇〇〇というカード会社に以下の件を電話リレーお願いします。

用件は

「お世話になっております。そちらで会員にならせていただいております、〇〇〇です。

〇月~〇月まで不在にするため、クレジットカードの振り込みが遅れる可能性があるということをお伝えしたくて電話させていただきました。」

ということを伝えていただけますか?」

 

電話リレーサービス業者(Skypeで返事をしています)

「かしこまりました。それでは電話をおかけいたします。」

「(発信中)」Skypeでやり取りしながら並行してカード会社に電話をかけています)

「(相手が出ました。電話リレーであること、そして発言を通訳しています)」

 

カード会社のオペレーターからの返答(これも電話リレーサービス業者がSkypeでそのまま相手の発言を打って教えてくれます)

「〇〇〇カード会社です。かしこまりました。

ただこちらは、あなたが本人かどうか分かりませんので、申し訳ございませんが、ご家族の方にもう一度電話してもらってください。または、あなたご自身の身分証明書をコピーした上でそれをこちらまで郵送ください。それか、あなたご自身がお近くのサービスカウンターへお越しください」

 

電話リレーサービス業者

「(電話を切りました)」

 

Aさん

「・・・・・」

「分かりました、ありがとうございました」

 

=====

 

こういうやり取りが特に銀行・クレジットカード会社では日常となっています。

 

ではどうしてこれがダメなのか、合理的配慮としてなっていないのかを分析していきましょう。

 

その前にまず、電話リレーサービスとは何かを簡単にまとめておきますね。

 

電話リレーサービスとは

電話リレーサービスとは現在、日本財団が運営している「電話が出来ない人」と「電話ができる人」の間に立って通訳するサービスです。

 

「LINE」「Skype」での文字またはカメラを使って電話が出来ない人の話を声に変えて電話ができる人に通訳します。

(これは利用者から見た流れです。企業との契約の場合は通話料はどうなっているのかは不明です)

 

これは相手がどんな人でも有効です(企業、店舗、聞こえる友人、家族など・・・)

そして現在は電話リレーサービス事業者が7社あります。

 

【仙台】プラスヴォイス

【千葉】千葉県聴覚障害者センター

【東京】シュアール

【滋賀】滋賀県聴覚障害者センター

【熊本】熊本県聴覚障害者情報提供センター

【沖縄】アイセック・ジャパン

【沖縄】沖縄県聴覚障害者情報センター

 

事業者詳細はこちら ⇒ 事業者一覧 | trs-nippon.jp

 

これについて、イラストでまとめているツイートがあります。

こちらもご覧ください。

 

  

これの何が問題なのか

では、話を戻して、このカード会社と本人とのやり取りについて何が問題なのかをまとめていきます。

ここでの問題点は3点あり、まず1つ目が「本人認証」の問題です。

 

問題1:声に頼っている本人認証

ここで問題となっているのは、「本人認証を声に頼っていること」ですね。

例えば健常者が電話でカードについてのお問い合わせをしたら、そのまま「本人」だとみなされ、スムーズにやり取りができます。

しかし、耳が聞こえない人や電話が出来ない人(発達障害者・失声症など)が電話を代理で電話リレーサービスに頼むと、なぜか「本人ではないから」と断られるという不思議な現象が起きてしまうのです。

 

ここで問題を一つ、挙げましょう。

 

「なぜ、声だけで電話の向こうの人が本当に本人だと分かるのですか?」

 

もちろん、会社側もその対策として相手に更に「お誕生日」「住所」「電話番号」などの個人情報を聞いた上で本人確認はしているところもあるでしょう。

しかしそれが答えられたからといってその人が絶対に本人とは限りませんよね。

 

下手すれば、私(ろう者)が「銀行からあなたは本人じゃないって言われて断られるの面倒くさいから、あなたが私のフリをして電話をかけてよ。住所や電話番号は伝えておくから」と頼めば終わりですよね。(苦笑)

 

声紋に頼っているわけでもないのに・・ 

例えば、銀行やクレジットカード会社など、本人確認が必要な会社へ入会申し込みをするとき、「声紋」のテープを送るというルールがあって、その上で利用者が会社へ電話をするときにオペレーターがその声紋と電話の声を照らし合わせて「間違いなく本人だ」と確認するような制度があるなら、まだ、まだ、分かります。

(とはいってもこれは差別に当たるんですけどね。喋れない人は入会できなくなってしまうので)

 

しかし今はそういうルールもありません。

ただ、相手が電話をして「本人です」と名乗りさえすれば全てOKになってしまうのです。

これはおかしいですよね。

 

本人確認ができないのは差別です

実は、本人確認ができないのは差別に当たるのですよ。

なぜなら、電話リレーサービスという日本財団が運営しているちゃんとしたサービス(それも無料ではない。ボランティアではなく有償です。また、日本財団側もちゃんと登録者の本人確認を行なった上で登録しています)を使用して、本人として利用しているのにそれを「本人ではない」と断るからです。

 

 

 

問題2:障害者はわざわざサービスカウンターに足を運ばないといけないの?

もう一つの問題点はこれです。

「あなたが本人かどうか分からないから、サービスカウンターまで来てください」ということです。

 

まず第一に、電話リレーサービス事業者に対しては登録時に本人確認をすでに済ませています。

その上で電話リレーサービス事業者は「本人です」と説明してくださっています。

それなのに、本人と認めず、しかも、わざわざサービスカウンターに来させようとしています。

健常者だと電話で済む用事がなぜ障害者だとサービスカウンターに行かなければならないのでしょうか。

それも、「本人確認ができないから」それだけの理由で。

健常者は昼休みに電話をかけて終わり、のことが障害者だと手間がかかるなんておかしくないですか?

 

また、耳が聞こえないだけでなく重複障害者と言って足が悪いなど他にも重複した障害を持っている人も多いです。

そういう方々にまで「本人確認ができない」というだけで手間をかけさせるのでしょうか?

 

郵送もおかしい

以上と同じ理由で、郵送もおかしいですよね。

 

例えば、クレジットカードをなくした、暗証番号が分からなくなった、カードが他の人に使われているかもしれない!

・・・など急いで会社に連絡しなければならない時でも、「本人でないからカウンターまで来てください」「本人でないから身分証明書を郵送してください」と言うのでしょうか。

 

問題3:家族や友達に電話をしてもらってと言うのも差別です

次に「あなたが本人であることを証明するため、家族または友達に電話をかけてもらってください」というのも非常に多いですが、これがどういうことか分かっていますか?

 

家族や友達に頼むということは、内容によっては「カード番号・暗証番号を伝えなければならない」「カード残高を伝えなければならない」など・・・

個人情報丸出しになってしまいます。

 

その前に、あなたは例え家族や友達であっても、自分のカード情報や今銀行の残高がいくらあるかなどのお金に関する情報をベラベラ話せますか?

話せるよ!という人もいるかもしれませんが、多くは「遠慮したい」はずです。

 

また、家族や友達に頼むということは、「あなた自身を本人として見ていない」ことであり、また、当事者のプライベートな情報を他人に話すことを強制しているのと同じです。

従ってこれは差別にも繋がります。

 

以上3点から、これは大変おかしいことであり、差別的な対応だと分かりますね。

 

 

外国人への通訳はすぐに設置されるのに・・・

そしてもう一つ、沸いてくる疑問。

これは少しずれるかもしれませんが、一応書いておきます。

外国人に対する通訳はすぐに配置されるのに、なぜろう者難聴者への通訳は配置されないのでしょうか?

これは会社によるかもしれませんが、外国人が代理電話を利用するとすぐにOKになっているそうですよ。

これも差別的な対応ですよね。

 

これに対して、Twitterでは様々な人が「悔しい」という声を上げています。 

 

Twitterでの様々な方々の声

以下、電話リレーサービス業者を使ってカード会社などに電話をかけたろう者難聴者のリアルな声です。

 

ろう者難聴者の声

リアルな不満が飛び出しています。

 

https://qvhftw.dm2302.livefilestore.com/y4msZaS6MlUwfCnvS1D0c0wgmTs1Exr7eGIlmHEdCbn39kFmUqRMp83UvI3q2JpotuRLFT43kdcIFi6KEwrj42UENcE3emsFyEFS-sNCN7yF-FRqEYhxm3gEjckw1NLzXK2Wf7np4A2jWpYzYKbFuZfEiX1DwLl9T1zCIepY7Ai_cLqScNRsw1MRtzXCZUCLGycOUS-YXUsRxXvNscDvkF9Mw?width=633&height=152&cropmode=none

https://qvhitw.dm2302.livefilestore.com/y4mVUrmbV82Lu9QZyQescbQ7JURA_8Vaj_dD8L5mBa6H1KWL0_Du7POXs3HCqJhuz4RWq1stL0h_V84_3JP8q2qA4RkQuzWczjXnoX6NIehFV3jWeAApUK9CAeyKGVK9rxXoBGcuTdwkZMu_nnJj_Qdtys2A2ma7r33yNoo7jkHc2pdIfCrRuUcJ61IeEwsT7nOq6C-zWz3N7frMXXRz3YVkw?width=620&height=127&cropmode=none

(4年前のツイートはTwitterから貼りつけられないため、キャプチャで失礼します)

 

 

 

 

(昔のツイートはTwitterから貼りつけられないため、キャプチャで失礼します)

 

 

聴者(聞こえる人)からの声

これについては聴者(耳が聞こえる人)も疑問に思っている声もありました。

 

 

 

 

これを見ても分かるように、多くのろう者難聴者が非常に不満を持っていることが分かりますね。

 

直接電話したいのに家族や友達に頼めと言われ、そうでなきゃ郵送でと言われ・・

郵送にしても送って返送してもらうのを待ってまた書類を記入して郵送して・・・このやり取りに下手すると1週間~1か月はかかる。

そんな面倒くさいことを誰が歓迎しますか?ということですよね。

 

これは障害者を個人として見ておらず、あくまでも「信用できるのは健常者だけ。だから健常者に頼りなさい」と言われているのと同じことになるのです。

だから差別とも言えますし、決して合理的配慮にはなっていないですよね。

また、「電話至上主義」「発声ができないと認めない」という雰囲気もありますよね。

だからこそ不満が大きくなるのです。

 

海外ではすでにデフォ。日本は遅れている

ちなみに健常者の方々は、「日本は先進国。福祉も進んでいる」と思っている方々も多いようです。

しかし、違うのです。

日本は考え方からもうかなり海外から遅れをとっているのです。。。

 

というのは、海外ではすでに電話リレーサービスでの代理本人認証が有効だからです。

その一例として、アメリカ・ニュージーランドが挙げられます。

しかも電話リレーサービスも24時間対応がデフォになっています。

(日本は8時~18時までがほとんどです)

 

 

 

このように、日本はすでに先進国の中でも遅れを取っており、もはや先進国ではないとも言われています。

また、日本の対応は海外の方々から見たら「非常に差別的」であることをみんなが意識していかなければならなくなっています。

「おもてなしの国、日本」としてはとっても恥ずかしいことなのです。

 

 日本も早く電話リレーによる本人確認が当たり前になって欲しい!

今までに色々と電話リレーサービスでの本人確認ができないということを書いてきました。

また、海外では「電話リレーサービスでの本人可能」となっていることも分かったかと思います。

 

実は、日本でも「電話リレーでの本人確認がOKになっている」カード会社や銀行もあるのです。

こういう会社はすでに「合理的配慮」に準じた仕組みを作っていますので、是非とも参考にしてもらえると嬉しいです。

 

では、その一例を今からいくつか挙げていきますね。

 

電話リレーサービス対応可のカード会社・銀行

 他にもあるかもしれませんが、今は3社の対応についてまとめておきます。

JCB楽天は電話リレーサービスに登録してない人でも手話デスクを利用できるようになっています。

その一方、三井住友は三井住友カードを持ってる会員でないと手話デスクを利用できません。

ただし、カードを持ってない人でもお問い合わせできるよう、聴覚障害者向けお問い合わせのページが用意されています。

 

JCB(ジェーシービー)

9:00-17:00までお問い合わせ受付可能

Skype⇒ID:jcb-syuwa

LINE⇒ID:jcb-syuwa

Facetime⇒メールアドレス:jcb-syuwa(at)plusvoice.jp

※[at]の部分を@に変えてご登録ください。

www.jcb.co.jp

https://qvhvtw.dm2302.livefilestore.com/y4mQBNCbv2IYUACk4iAxiRHSiJ6lDP7Ug4BD4aAd9fTAvnfUThYonfXJldaldIOzOdOs_MXQMKeoW-hwpyDOi6vwjw9Ybj8iDAmc-bpBiicSbXmbzIju0ZByOXWlfyW7V0JCTlW-CH_2WX3qFaiu8pzamL2dKkySgYeRpHLKk6XLSy-IpBhQnCXFjWdAncelTu1638HWwWV6CURh6SKaNrqyA?width=813&height=231&cropmode=none

ニュースにもなりました。

www.sankei.com

 

楽天カード

9:30-17:30までお問い合わせ受付可能

SkypeSkype-ID:rcard-pv

LINE⇒LINE-ID:rcard-pv

Facetime⇒メールアドレス:rcard-pv[at]plusvoice.jp

※[at]の部分を@に変えてご登録ください。

 

www.rakuten-card.co.jp

https://qvhwtw.dm2302.livefilestore.com/y4mrWsrFKqNtB6cVGbd64MSRnt7xx48zbM4i4QsN4csBPZIBVTTDZZ3Dgcdlb-d4nw5PzyFao3ApMP3HjoH-3H2nf5XJHCLg6yXsHR0EgaPXdIOSbO8MWORuo6FF84_-teOKN-46fPoYLHriMumVMNQ6xM542Jv09zaRsQ0mtY9565hkj3lXMaUO6Bok-K8RRR1TUz3jlkmMUk4pmv3UYNlHw?width=739&height=305&cropmode=none

個人ブログ(アフィリエイト関係)でも紹介されています。

www.0china.info

 

 三井住友

三井住友の場合は会員制となっており、カードを持っていない人は手話デスクを利用することができません。

www.smbc-card.com

 

カードを持っていない方で聴覚障害聴覚障害者のお客様向けの対応方法の説明ページも用意されているので、カードを持っていない方はこちらで対応して頂けます。

www.smbc.co.jp

 

この取り組みは ニュースにも取り上げられています。

耳や言葉の不自由な会員からの手話や筆談で本人が直接問い合わせができるようにしてほしいとの要望に応える。

newswitch.jp

 

手話デスクでの対応の共通点

 

では、こういう会社はどのようにして本人確認を取っているのでしょうか?

 

○電話リレーサービス事業者(プラスヴォイス)と提携している

 

電話リレーサービス事業者(プラスヴォイス)と提携することで、プラスヴォイスによる本人確認はすでに済んでいることにした上で対応している

 

○テレビ電話を使って本人を確認している

 

それだけでなく、プラスヴォイスのオペレーターさんがテレビ電話を利用して本人の顔を出している

 

この2点が共通していますね。

 

手話ができない人に対しては…

ただ、仮に手話デスクを設置したとしてももう一つの問題があります。

それは、手話ができない聞こえない人はどうするのか、ということです。

これについては、手話ができない聞こえない人はメールやファックスでの対応ができるように改善していってほしいと思います。

 

または、「手話デスク」という名前を「手話・文字デスク」に変更し、カメラチャットを通して手話が良い人は手話で、文字が良い人はラインやスカイプのテレビに繋げながら文字でチャットする…などの方法で対応してもらえると嬉しいです。

 

 

それでは、合理的配慮とは?

では、ここでのケースの場合、合理的配慮はどのようなものがあるのでしょうか。

ここまで読んだあなたであればすぐに分かるかと思いますが・・・

 

電話リレーでの本人確認を認める

もちろんこれですね。

電話リレーを通して電話をしてきた相手が本人であることを認める。

そして、電話リレー業者を通してやり取りをする。

これは、健常者がカード会社に電話をかけてきたのと同じ対応になるので、合理的配慮になります。

 

メールやFAXでの本人確認を認める

実は、電話リレーサービスに入っていないろう者・難聴者も多いのです。

電話リレーサービスといっても事業者がやっていますので、オペレーターの数にも制限があります。

それで、全てのろう者・難聴者に対応することが困難なため、登録制限もあるのです。

そのため、電話リレーを使えないろう者・難聴者も出てきてしまいます。

 

そういう方々のために、メールやFAXでも本人確認をOKとし、そのままスムーズにやり取りができるようになること。

これも合理的配慮として考えて頂けると嬉しいです。

 

(ただし、後に書く手話デスクを設置している会社だと電話リレーサービスに加入していない人たちでも手話デスクを通して電話リレーサービスを利用できるようになっています)

 

企業側で手話デスクを配置する

そしてもちろん、どんな人でも手話デスクを利用できるようにすること。

これにより、電話リレーサービスに登録していない人でも気兼ねなく利用することができるようになります。

また、その際、手話ができない方々のためにもカメラで顔出ししながら文字でやり取りできるようにすること。

これも合理的配慮としては大事なことだと思います。

 

手話デスクとは

ここで新しい言葉が出てきましたね。

「手話デスク」です。

 

これは簡単に言うと、企業と利用者の間を結ぶ電話リレーサービス事業者または手話ができる方を間に置いて利用者と手話または筆談でやり取りをするデスクのことです。

先ほども貼りつけておきましたが、実際に手話デスクを利用している企業がありますので、そのサイトリンクを貼っておきますね。

www.jcb.co.jp

 

以上、長くなりましたが、ろう者難聴者の本人確認およびカードに関するスムーズな手続きのためには電話リレーによる本人確認ができることが必須であり、また、電話リレーを利用できない方々もメールやFAXでの本人確認がOKになるよう、企業側も考えていただけたらと思っています。

 

じゃあ、手話デスクのある会社に変えればいいじゃない?

ここまで来たら、逆に「それなら、手話デスクに対応しているカード会社に変えればいいじゃない」と言ってくる人もいると思います。

実際、「手話デスクがあるかないかでカード会社を決めている聴覚障害者もいる」わけですから。

 

でも私はそう思いません。

 

 

このように、「手話デスクがあるかないか」でカード会社を選ぶのではなく、「自分に合ったカード会社を自由に選べるようになる」ことの方が大事だし、それこそ「平等な社会」だと思っています。

なので、手話デスクはもちろん全国すべてのカード会社に普及してほしいし、または、手話デスクがなくてもメールやFAXでも即時に対応できるようになってほしいなと思っています。

 

しつこいようだけど手話ができない難聴者への対応も考えてほしい

 

何度か書いていますが、最後に、手話ができない難聴者の存在も忘れないでほしいです。

手話ができない難聴者は電話が少しでもできるんじゃない?と思う人もいるかもしれませんが、実際には「できません」。

ところどころ聞き取りにくかったり、聞き間違いが多かったりします。

だから「難聴」なのです。

 

なので、手話デスクを設置するだけでなく、そういう方々のためにもメールやFAXなど他の方法での対応もできるように考えてほしいと思います。

 

そのためにはやはり「本人認証」への理解がカギですね。

 

また、周囲の方々も「こういう問題があるんだ」ということを理解していただけたら嬉しいです。

それでは今回はここまでです。

 

 

文科省主催の合理的配慮のセミナーで合理的配慮を拒否!?

 

文科省が合理的配慮を分かってない!?

少し前、こんなことがありました。

Twitterより。

 文科省が主催の合理的配慮の企画だから期待できる、色々と勉強したいと思って申し込んだぶりりんさん。

しかし、申し込み時に「手話通訳をお願いします」と頼んであったにも関わらず、そのお返事が1か月も来なかったあげく、更に耳が聞こえない人相手に電話で「手話通訳の用意はできません」と断ってきたそうです。

 

これはどういうことなのでしょうか。

その前に、まず「合理的配慮」とは何かについて簡単にまとめておきます。

 

合理的配慮とは

それでは、合理的配慮とは何なのかを簡単にまとめてみます。

合理的配慮(ごうりてきはいりょ)とは、障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になり過ぎない範囲で、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のことである。障害者権利条約第2条に定義がある。

引用元:合理的配慮 - Wikipedia

つまり、どんな障害者でも何かの企画に参加したい、そのための配慮が欲しいと言ってきた場合は健常者の参加者と対等に参加できるように対応していくこと、これが合理的配慮であると考えられます。

 

この場合、ぶりりんさんは耳が聞こえないので手話通訳をお願いしたい、と申し出ていました。

それに対して文科省はもちろん、この企画に対して手話通訳者を探して配置する配慮をしなければなりませんでした。

しかし、その配慮義務を怠ったばかりでなく、聴覚障害者に対して電話で連絡した、ということです。

この件からも、私は「合理的配慮を広めるためのセミナーなのに、やる人が障害者のことを分かってないのでは・・・?」と危惧しました。

 

もちろん、全ての人が全ての障害者を理解する必要がある、とは言いませんが、「耳が聞こえないので手話通訳をお願いしたい」と言っている人に対して電話・・?は少し考えられませんね。

 

しかしながら、そもそも「聴覚障害者」のことをあまりよく知らない人も多いと思いますので、この件は一旦置いといて、次に聴覚障害者への合理的配慮とは何があるのか?についてまとめていきます。

 

よろしければ皆様も、自分で企画を設ける時、聴覚障害者から参加したいと申し出があった時のために読んでおいてもらえると嬉しいです。

 

 聴覚障害者への合理的配慮とは

そもそも、聴覚障害者(ろう者・難聴者・中途失聴者・高齢難聴者含む)への合理的配慮とはどんなものがあるのでしょうか。

 

ここでのポイントは、聴覚障害者は人によって聞こえ方が様々」だということと、聴覚障害者はみんなが手話できるわけではない」ということです。

この2つを覚えておいてもらえれば嬉しいです。

 

聴覚障害者への通訳の種類

まず、会議やセミナーなどの場において聴覚障害者へ話の内容を伝える方法は色々とありますが、その中でも最もよく使われる方法を3つ書いていきます。

手話通訳

まず最初に考えるべきは「手話通訳」です。

手話通訳は、発言者の発言をほぼ全て(100%は難しいかもしれませんがなるべくリアルタイムで)手話に変えて通訳することです。

https://qvgozg.dm2302.livefilestore.com/y4mU332wWTQAdB1ifmUqK1MK0X5zsl0vlzL5Xa4RkYwDmOb5PLL9XnXTPX9bYTpL91J7JuHvzdumTaJ9m8fx-3zY3QBs4L8QHGIgfOvcMOt4kOsv3Vc-FFWgonhmYINyVGBVggOaiqp7PFRbjvRbjFaulNOVbRVZ4LaTTxL7i21tfo_95aLBIn6t0NZ4d42cLjYK0D_PZHKHwq9uzfOeo3AkQ?width=300&height=300&cropmode=none

 

これには技術が必要であり、日本語⇔英語の音声通訳と同等の技術が求められます。

しかし、手話通訳者もピンキリで、発言者の発言を確実に伝えられる手話通訳者はそうそう多くありません。

ひどい時は、発言者の発言内容を間違って伝える手話通訳者もいます。

なので、確実に発言を伝えたい!と思う時は、それなりにお金を払ってちゃんとした手話通訳者に来ていただく方が企画開催者にとっても聞こえない人にとっても安心です。

 

要約筆記

要約筆記とは、発言者の発言内容をなるべく多く伝えるために筆記通訳することです。

ノートに書く方法と、パソコンを使って伝える方法の2つあります。

そして今はパソコンを使った要約筆記が主流となってきています。

 

1:ノートに書いて伝える要約筆記

https://qvglzg.dm2302.livefilestore.com/y4mZpNkeGIOVYcv0K6718anx1PMp4p46La-5baUXbC6_oCh5n14lLF-UL_HqoHoBA6sGoyeCemTR5ykHvPQ8OeJdIuPEX_60ujeEjI5Y8ghKjoTUSeQ7yXGzxSiNvRXQgyEAGeq-lG5eLYkDg-aAh20gj8aZouUSuKOxUq8hrdtOzJjTboM55TtOexqb89i8Q8UJPBRnIOdx1d5RPKcl77FZw?width=300&height=300&cropmode=none

2:パソコンで伝える要約筆記

https://qvgmzg.dm2302.livefilestore.com/y4m0G4KU1l-ArGFS7tnhMjueBI_hczEk0UFHcUIMmhlxyKc7b1OMc2iCQ0V7Rtc24yqkfUcDVhydOyldHj3ASMcpe5l0DLo_qeFQM9Zy6tdwCfuUJhKtgW1IGOtOW2d-loQXUEvMVe2T7KZWJantvnpuLOGPy79PzKKMnxrpIMVE2kURjBb65TfFgSASMsj2GgANKEIomw28zGRALtWgVykWA?width=300&height=300&cropmode=none

注意:パソコン通訳の場合、通訳を受ける人が少人数(1~2人)だけの場合はパソコンを直接見せながら要約筆記をするやり方もあります。

基本的には、イラストのようにパソコンとスクリーンをつなげて、パソコンで打った文字がスクリーンに映るようにするやり方が多いです。

 

磁器ループ

 磁器ループとは、有線マイクをループアンテナにつなげると、そのループアンテナの班内に入った人(補聴器装用者)であれば直接喋っている人の声が補聴器に入りやすくなり、それで聞き取りやすくなる・・というやり方です。

これは軽度難聴者に有効です。

https://qvgrzg.dm2302.livefilestore.com/y4maZ_h7serzWkY0XMiQWffKh1xZ6MoAAxpeaQFqVnDL7tS3wRczuUTr5CIVklzlPEbeqOnSJNXjrevqs2VsxAb_FB2EkN3Y0ptgL5tMTMII5qVXIndkLXdgXuUsYy552sOJYxTicWJMqeaEZrRpECXaoH8-B4sX8UfggySOgx5LzmkH8hBW0d0Sd6e0suk83_nQl1K3a0v16oroM8hquXNIw?width=300&height=300&cropmode=none

 この3つは、(通訳者の技術によりますが)発言者の発言内容をできるだけ100%伝える努力が可能な方法です。

 

では、次に、文科省の企画担当者からのお返事にパワポがあるので、ご理解ください」という方法だと、どうしてダメなのかを考えていきましょう。

 

 通訳とは内容をなるべく100%伝えること

当たり前ですが、日本語⇔英語間通訳において、もしあなたが英語が分からない状態で英語圏の方々に囲まれた企画に参加しなければならなくなったとします。

その企画の内容は、講演者のお話を3時間聞くものとします。

 

その中で、あなたは「日本語通訳がない」状況で、話す内容をレジュメで渡されておしまい。となった時どう思いますか?

 

レジュメの内容そっくりそのまま話す講演はない!

 

もちろん最初は、「レジュメがあるならまぁ、いいかな」と思う人もいるかもしれません。

 

しかし、問題は、講演者がレジュメの内容を一字一句そっくりそのまま話すとは限らないということなのです。

当たり前ですよね。

https://qvgszg.dm2302.livefilestore.com/y4mAzBX3QNaKRakGivAghEqBWo82IuGRr1AT-17q7vYF9N2z-pYqMFL3LetC1o4RmHrNAiO6MKLeEXXdXouleJvPcsGvffdFa-gZ-8mKfeSDSiQwV2VFqrLw_fSbTnrv8mQ6X2YQ9z0lsnhYSoNQxiSpSW2RAZ2W4lPnVI2XegE93yhdtRFctuD54J1JGIn_iJeJBP_VRtxp9h1jSxIEl7r0g?width=300&height=300&cropmode=none

 

実際には、レジュメの内容を更に細かく、詳しく話したり、また、レジュメに書いていないことも色々と話すのが講演です。

また、レジュメに載っている文章をそのまま読んでいたとしても、その補足を話すことだってあります。

 

そういう時、あなたは、「レジュメだけでは分からない!レジュメ以外に話している内容も知りたい!!」と思ってじれったくなりませんか?

 

むしろ、レジュメに書いてある一字一句漏れなくそっくりそのまま講演されていたら、参加者みんな「これじゃレジュメをそのまま読んでいるのと変わらないじゃないか!」となるでしょう。

 

そうです、私たちは、「パワポがあるからそれでいいでしょ」みたいないことを言われても困るのです。

むしろ、パワポがあるからそれで勘弁してと言うぐらいなら、それと同時に講師に対しても「パワポに書いてある内容を一字一句そっくりそのまま読んでください。パワポに書いていないことは一切話さないでください」とお願いしてください。

それぐらいのことをしないと、平等とは言えないのです。

 

しかしそれだと、もちろん講師も困ってしまいますよね?

なので、通訳は必ず必要になるし、「パワポがあるのでご理解ください」というのは決してあり得ないことなのです。

 

情報保障とは、健常者と同じだけの情報を伝えること 

 

ここで、「情報保障」という言葉が出てきます。

この言葉、皆さんは聞いたことありますか?

 

簡単に言えば、「今、そこにある情報(耳に入ってくる情報)をなるべく100%に近づけながら情報弱者に伝えること」です。

 

そして、耳が聞こえる方がその情報を仮に90~100%受け取れるとすると、ろう者難聴者は通訳がない状態だと0~30%、通訳がある状態でも通訳者の技術や講演者の話し方によっては40~60%、技術のある人でも60~80%(かなりうまい人でも90-98%ぐらい)の確率で受け取れる情報が減っていくのです。

(★これは私の体感および、実際に通訳者に聞いた確率です)

 

それでも、やはり通訳があるのとないのとでは大きく違いますし、通訳があって初めて聞こえる方と同じ(全く同じとは言えないけどそれでもだいぶ良くなる)立場に立つことができるのです。

https://qvgfzg.dm2302.livefilestore.com/y4mznDBtbFSof1RDkI8WxrTE1Da4wmX4Ikz0JaKqTUIgEcjG0y6EZIPoNbbgMt3hlKiWJe9NoQa2-TZFZXc--7itYk5MkaHtLqe8qCzSLjzBaxPWktIkt8xLZRKfWa6YFvcG0S-zRXC52DAC72Tx9JK3ZC4jJd4vUeOPlVQairZsFp8qtkMwaalupJ16oeWfKWNrDwar78T6CPt1r0QinQm5w?width=300&height=300&cropmode=none

左側が健常者(聞こえる人)、右側がろう者難聴者とする。

右側は通訳者を介して初めて40~60%(技術的にまだ低い通訳者の場合)、または60~80%(技術のある通訳者)(★かなり技術のある人でも90-98%)の情報を受け取ることができる。

もし通訳がなければ、0-30%(30%はレジュメなどからの情報または軽度難聴者の場合)となってしまう。

 

その状態で、「通訳は用意できなかったからパワポでご理解ください」というのが果たして合理的配慮になるのか・・・?というと、「これは違う」とはっきり言えますね。

 

では、どうすれば良かったのか?

もちろん、「用意できなかったものは仕方がない」こともあるかもしれません。

でも、一か月も時間があったにも関わらずその返答・・・というのはちょっとないかなというのが私の感想です。

あえて言うならば、その1か月の間に通訳者を探すことは充分にできたはずです。

(していたのかもしれませんが・・)

 

その上で、「1か月間あちこち探しましたが、用意できませんでした。申し訳ありません」という言葉を下さるのならまだ、心理的にも納得できますよね。。。

 

主催者側で見つからなければ依頼者にもお願いする

本当に1か月間探してそれでも見つからなかったとしても、「用意できなかったのでパワポで・・」と言うのではなく、「こちらで一か月間探しましたが、見つかりませんでした。もし良ければ、そちらで誰か知り合いやご友人など、通訳できる方はおりますでしょうか?もしおられるのでしたら、費用などはこちらで持ちますので、どなたかに依頼お願いできますでしょうか?」ぐらいは言えると思うのです。

 

それさえもなく、ただ「パワポがあるので~」というのは投げやりすぎないかな、と思います。

合理的配慮のセミナーをする側としては、もう少し誠意を見せて見つからないなら見つからないなりに色々と提案してほしかったかな、と思います。

 

今後は・・・

今、ぶりりんさんは各方面に連絡し、なんとかしてセミナーに参加できるようにしたいと手を尽くしているそうです。

本来はそれは主催者がするべきことですが・・・

ともかく、今後の様子を見守っていこうと思います。

 

追記

今はどうやら、周囲の方々の協力のおかげで文科省から手話通訳の派遣依頼をしていただくことになったとか。

そのあたりの経過は詳しくは聞いていませんので、近々本人に確認させて頂こうと思っています。少々お待ちください。

 

 

手話サークルはなんのためにあるの?誰のため?

 

私は耳が聞こえない。

よって手話や筆談で生活している。

(注意:聞こえない人の中には軽度難聴で手話は必要ないと思っている人もいれば年をとってから聞こえなくなったために手話はなかなか覚えられない。。という人も色々いるので、聞こえない人はみんながみんな手話ができるわけではありません)

 

それで手話サークルにも興味があり、以前1、2度行ったことがある。

でも、いつも1、2回だけですぐに行くのをやめてしまった。

 

それはなぜか?ということをこの記事では書いていく。

 

手話サークルはなんのためにあるの?誰のため?

 

これについて、私は「手話サークルとはろう者、難聴者のためのものである」と考えている。

「えぇっ、手話を学ぶ聴者のためのものじゃないの?」と思う人は多いと思うし、私もそう思っていた時期はあった。

でも、今は違う、と私は考えている。

それはなぜか。

 

その前にまず、手話サークルとは何か?から調べてみよう。

 

手話サークルとは?

 

 手話サークルは「手話を学ぶ」サークル。

また、手話を使って何かをしたり手話を使ってろう者など聴覚障害を持つ方とコミュニケーションをとる勉強をしたり。。という場でもある。

聴者が手話を通じて聾者とのコミュニケーションを取る場

引用:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/手話サークル

 

成り立ち

 

手話サークルの成り立ちは色々とあるが、もっとも古いのは1963年、京都で発足された「京都市手話学習会みみずく」というサークルだと言われている。

 

みみずくのサイトへのリンク: http://33zk.sakura.ne.jp/honb/

 

それから今に至るまで、全国都道府県に手話サークルが発足され、その手話サークルから手話通訳者が生まれ聞こえない方々の生活を助けたりということが広まっていった。

(注意:手話サークルに入れば必ず手話通訳者が生まれるとかそういうわけではなく、手話サークル以外の場所でも手話通訳者(士)が輩出されている。)

 

主な活動

 

主な活動としては、先程も述べたように、

 

  • 手話を覚える
  • 聞こえない人とのコミュニケーションを学ぶ
  • 聞こえない人の生活のサポート(手話通訳など)
  • 手話関係の企画やイベントに参加

 

。。。などが挙げられる。

 

ところが、今の手話サークルには大きな問題点がある。

それは、

 

聞こえない人がいないサークルが多い

手話を学ぶ場ではなく集まっておしゃべりする場になってしまっている

 

この2点である。

 

ではこれがなぜ問題なのか、これから説明していく。

 

聞こえない人がいないサークルの問題点

そもそも手話サークルは、「手話を学ぶ」ためのサークルである。

それなのに、サークルに聞こえない人(かつ、手話ができる人)がいないとどこから手話を学べばいいのか?となるだろう。

 

聞こえない人がいないサークルが生まれる理由

 

ではなぜ聞こえない人がいないサークルが存在するのか?

その答えとしてはいくつかある。

 

  • そもそもその地域に住んでいる聞こえない人がいない
  • サークルの時間帯に来れる聞こえない人がいない(例:働いてる聞こえない人が多く昼間のサークルは参加できないなど)
  • 聞こえない人がサークルに来ても手話がなく楽しくないために居つかない

 

このうち上の2つは仕方がない。

その場合は、聞こえる方で手話ができる人を招いてその人に手話を教えてもらうやり方で対応しているサークルも多い。

 

聞こえない人が手話サークルに行く理由

 

問題は下の1点、「サークルに来ても手話がないから楽しくなく居つかない」ということである。

 

そもそも、聞こえない人が手話サークルに行くのは、

 

【手話で話せる友達を見つけたい】

【私自身もみんなと一緒に手話を学びたい】

 

…この2つが多い。

 

なぜなら、聞こえない人は普段は家でも学校でも会社でもどんな時でも、聞こえる人、それも手話ができない人が大半の中で生活しているからである。

 

考えてみてほしい。

もしあなたが英語が全く分からない状況の中で、今から死ぬまで英語圏の国で生活しなければならないとしたら。

周りに日本語もなく、通訳者もいない状態で。

 

聞こえる人はそれでも、耳で聞いたりしてやがては英語が分かるようになる時が来るかもしれない。

そして自分の居場所を見つけることができるかもしれない。

しかし、聞こえない人は永久にその機会は来ない。

 

つまり、あなたが英語が全く分からない状態で英語圏の国に放り出され、通訳者もいない状態で困っている状態が死ぬまでずっと続くのだ。

訓練したって英語が分かるようにならない、聞こえるようにならないという状態がずっと、である。

 

そういう時、人は何を求めるか。

 

それはズバリ、「自分と同じ立場の人」「自分と同じ言葉でコミュニケーションが取れる人」である。

 

そして「安心感」「癒し」、、というものを求めるようになる。

 

そしてそれを探し求めて手話サークルに行くのである。

 

これが、聞こえない人が手話サークルに行く理由のひとつである。

 

問題点1:手話サークルなのに手話がない

 

ところが、その 安心感、癒しの場であるはずの手話サークルで「手話」がなかったらどうなるのか。

 

ガッカリするだろう。

絶望するだろう。

 

そして、「手話サークルなのに手話がない」と裏切られた気持ちになるだろう。

 

また、「この人たちは手話という言語をバカにしているのだろうか?」という気持ちになってしまうかもしれない。

 

ピンと来ないあなたのために、例を出して説明する。

 

例えば、あなたが野球ができる人だとする。

野球ができるが、引っ越して来たから一緒に野球をする友達がいない。

でも諦められない。それで、野球ができる人たちの集まりがないか、探す。

そして、近くに野球部を見つける。

あなたは、「やった!ここに行けば同じ趣味の友達が見つかるかもしれない。野球の話ができるかもしれない。一緒に野球ができるかもしれない。」と喜ぶ。

 

そして、ワクワクしながら野球部へ行く。

 

しかし…現実は、野球などしておらず、しかも、テーブルにはお茶菓子が散らばっており「野球」という単語も出ない…

みんな野球など知りませんという顔をして関係ない釣りの話や遊びの話ばっかり…

 

え?ここ、野球部だよね?

みんな、なんのために集まってるの?

なんで野球の話をしないの??

 

野球部なのに、野球をバカにしてるの?

 

と、ガッカリする。

 

それと同じなのである。

 

「えーっ、そんなサークルあるの??」

と驚かれる人もいるかもしれないが、現実的には存在するのである。

 

もう一つ、このようなものもある。

 

問題点2:手話は使うが聞こえない人と話す時だけ

 

Aさん、Bさん、Cさんがサークルにいるとする。

そのうちBさんだけ耳が聞こえない。

 

この状態で、手話サークルでAさんとCさんは声で話をし、Bさんに話す時だけ手話を使うという状況がある。

 

これだと、Bさんは困る。

なぜかというと、AさんとCさんの会話が分からないからだ。

 

そして唯一Bさんが状況を把握できるのは、AさんまたはCさんがBさんに話しかける時だけである。

 

実はこういう状態の手話サークルがとても多いのだ。

下手するとサークル会員全員が声だけでおしゃべりをし、サークルの企画を進め、ろう者は分からないまま置いてけぼり…が当たり前になっている。

 

そして他のメンバーたちは「ろう者に対しては手話で話しているから、それで良い」と思ってしまっている。

 

聞こえない人と話す時だけ手話を使うのが良くないと思う理由

 では、きこえない人と話す時だけ手話を使うのが良くないと考える理由は何かというと。

 

情報保障の面で不平等だから 

手話ができる人たちがいる場ではろう者難聴者がいてもいなくても手話を使って話すこと、それがろう者難聴者に対する情報保障になるからである。

 

例えば聞こえる人たちは、何人かがおしゃべりしてる場にいるとわざわざ聞こうとしなくても会話が耳に入ってくるから分かる。

また、聞こうとしなくても情報を得ることができる。

 

しかしろう者難聴者は自分から聞かない限り情報は入ってこない。

 

そのため、手話サークルの中ではろう者難聴者に対しても「目で見て分かるように」情報保障をしてほしいのだ。

つまり、聞こえる人と同じ環境を作るということである。

するとそれがろう者難聴者にとって居心地の良い場所に繋がる。

 

しかし、それがないと、結局ろう者難聴者にとっては普段聞こえる人たちに囲まれてる世界と変わらなくなり居心地が悪くなってしまう。

 

話しかける時は手話だから良いじゃないと思うかもしれないが、それだって、結局は普段周りの人たちが筆談してくれる状況と同じことになってしまうのだ。

 

そのため、「なんだ、ここも結局は普段の環境と変わらないな」と思ってがっかりして去ってしまう…ということである。

 

手話サークルは誰のためにあるのか

 

ここまで読んだら、今の手話サークルがろう者難聴者のためではなく聴者のためになっていることがなんとなくでも分かってきたかと思う。

 

そしてそれは違うのだ、と私が言いたい理由も分かってきてもらえたかなと思う。

 

手話サークルの主役はろう者難聴者である

つまり、私が言いたいのは、手話サークルの主役は誰なのかということ。

 

そして主役はあくまでもろう者難聴者であって、彼らとの交流などのために手話を覚えに来る、それが手話サークルの存在意義なのだということ。

 

なので、まとめると、手話サークルは手話を必要とするろう者難聴者のためにあるのであって、その手話を覚えて生かす場が手話サークル、ということである。

 

 

手話サークルの場での合理的配慮は?

 

では以上の話を踏まえた上で、手話サークルという場においての合理的配慮はどんなものがあるのか考えてみよう。

 

ろう者難聴者にも分かりやすい場にすること

 

まず、やはりろう者難聴者が居てもみんなの会話が分かりやすい場にすること。

そのためにはみんなが手話を使う、もちろん、入ったばかりで手話ができない人の場合は筆談、または周りの人に手話を教えてもらいながら手話で話す努力をするなど。

 

声だけでの会話はしない

 

そして当然、声だけでの会話はしないこと。

声だけで会話すると、ろう者難聴者はすぐに分からなくなる。

すると、みんなとの情報共有ができなくなる。

 

手話サークルを運営していくためには全員が同じだけの情報を共有し、その上で意見を言うことも大事になってくる。

そういう意味でも、声だけでの会話は合理的配慮欠如ということになるので注意してほしい。

 

まとめ

 

本来、手話サークルはみんなで手話を覚え、みんなで手話で会話を楽しむところである。

そしてろう者難聴者と手話で会話をし、また、お互いに困ってることをサポートしあっていける人間関係を作っていく場でもあると思う。

 

そういう場であるはずの手話サークルからろう者難聴者が消えていくのは大変悲しいこと。

またそれは、将来の手話通訳者育成ができないことも意味する

 

手話サークルは手話通訳者育成が目的というわけではないところも多いが、ともかく、手話サークルをきっかけに手話通訳者が生まれることもあることを考えると、大変残念なことだと思う。 また、手話サークルで手話を学ぶ人が増えればその分ろう者難聴者の生活が豊かになり、そこからろう者難聴者と聞こえる方々の間で理解が深まっていくことを考えれば、ろう者難聴者が居やすい手話サークルを作っていくことは非常に大事なことだと思う。

なのでみんなもこのことを重視した上で改めて手話サークルについて考え直してほしいと思う。

 

 

 

サイレンの代わりになるものは何かありませんか?

サイレンの代わりになるものを考えたい

 

今、日本各地、特に田舎などでは「警報」システムがあるところが多い。

例えば時刻を告げるアナウンスもそうだが、ダム放流が始まるという警報など。

これについてみんなに考えてもらいたいことがある。

 

親子が川で流された事件

 

6月、こんな事件があった。

新潟県新発田市の川で子どもと遊んでいたお母さんがいきなり増水した川に流されたという事件。

結果、どちらも助かったから良かったのだが、お母さんは100メートルも流されたらしい。

 

 

 

原因は「サイレンが鳴らなかったから」だった

 

この原因は、「放流のサイレンがなかった」からだそうだ。

事故でサイレンが鳴らなかったのではなく、サイレンを鳴らす基準まで水位が達しないことが分かったからあえて鳴らさなかったわけである。

 

しかし今回の問題はそこではない。

 

サイレンが鳴らなかったからといっても、当時のダムからの放流水位は大人でも十分足を取られて100mも流されるほどの威力はあった。

それで問題になった。

 

サイレンが聞こえないろう者難聴者はどうしたらいいの?

 

今回はサイレンが鳴らなかったのが問題となっていたが、その前にもしサイレンが鳴ったとしてろう者難聴者はどうすればいいのか?

 

ろう者難聴者も補聴器を付ける人はいる。

しかし、川遊びの時はみんな補聴器を外す。

水で壊れてしまう恐れが高いからだ。

 

じゃあ、水で壊れない補聴器を開発すればいい!と思った人もいるかもしれないし、いずれはそういう補聴器が出てくるかもしれないが、そうだとしても今そこにある問題は解決できない。

 

東日本大震災での警報サイレン問題

もう一つ、サイレンが聞こえないことで問題になった例は過去にもある。

それが東日本大震災での津波警報だ。

 

津波警報が聞こえず逃げ遅れたろう者たち

 

実は、東日本大震災時の死者は健常者に比べ障害者は2倍という国の統計が出ている。

 そしてこの時の統計上の死者はほとんどが津波による死者だそうだ。

www.nikkei.com

 

また、聴覚障害者に関しては周囲の証言により津波による死者の多くは

 

津波警報が聞こえなかったからではないか?」

津波が迫り来る音が聞こえなかったからではないか」

 

と言われている。

 

実際、命からがら逃げて生き延びたろう者は「家にいたら近所の人が津波警報があったと教えてくれてそれで逃げることができた」と証言している人もいた。

 

聴者でも聞こえないことがある

 

でも、実は聴者でもサイレンが聞こえない(聞こえにくい)ことがあるらしい。

例えばサイレンが遠いところにあるためによく聞こえなかったり、家の中で窓を閉め切っていると聞こえなかったら、また周囲の音にかき消されて聞こえなかったりすることもあるらしい。

 

 

サイレンに代わる合理的配慮事案は?

 

ではどうしたらいいのか?

 

例えばサイレンが鳴った時、周囲の街灯もピカピカ光るようにするとか・・・

サイレンのそばに大きなランプを置いてそのランプが光るようにするとか・・・

 

むろん、川遊びに夢中になっていたら光にさえも気づかないことだってあるかもしれない。

でも、ないよりはあった方がいいだろう。

 

 

そして、サイレンが聞こえなくても光などの設備があれば、それで自分を守ることはできる。

しかし、サイレンもなく光もない状態で流されてしまったら、それは国?県?の責任になる。

 

つまり私が言いたいのは、「耳が聞こえない人でも自分の身を守れるように、それに準ずる設備などを用意してほしい」ということと、「その用意もないのに事故や災害に遭ったらそれは悔やんでも悔やみきれない」ということ。

 

用意があるのとないのとでは全然違う。

なので、耳が聞こえない人や耳が遠い方々のためにサイレンの代わりに何かお知らせができる工夫を考えてほしいな、と思う。

 

それを考えていくことも合理的配慮の義務になるのではないかと私は思う。

 

何かありませんか?

 

 

私が補聴器を付けることをやめた理由 後編

 

 

私にとっての補聴器は何だったのか

やっと最後、この記事は以下の記事の後編です。

tellyou.hateblo.jp

tellyou.hateblo.jp

 

・・・とこのように、私は「今までの自分」を振り返り、改めて自分のアイデンティティを見直しました。

そしてこれからどう生きるべきか?考えた時に、「補聴器をやめよう」と思ったわけですが。

ここからは、補聴器をやめてからのことを書いていきます。

 

補聴器は「聞こえる人のふりができる道具」だった

私にとって補聴器というのは、確かにはっきり言えば「意味のないもの」だった。

でも、軽い難聴の人のように補聴器をつけて耳で聞くフリ、聞こえるフリをすることはできる。

なので、よくそうやってカッコつけることがあった。

 

自分の自尊心を満たすための道具だった

つまり、補聴器をつけていれば、完全に聞こえる人にはなれなくても、軽い難聴者のように聞こえるフリをすることができる。。

振り返ってみれば私にとっては「補聴器は聞こえる人(軽い難聴者)のふりができる道具」だったことに私は気づいた。

 

人を見下していることにもなっていた

そしてもう一つ気づいたことがある。

補聴器を付けて聞こえる人のふりをして優越感に浸るということは、同時に同じきこえない人よりも優位に立ちたいという気持ちを持っていることに繋がる。

 

そして、みんなから「聞こえるんだね~、すごーい」と言われることで自尊心を保っていたということは、私自身も聞こえないのに他の聞こえない人たちを見下している、馬鹿にしていることに繋がる・・・

 

私はあなたたちとは違うのよ、私は聞こえる人に近い位置にいるのよ!みたいな。

 

私はどれだけ、「聞こえる人の方が偉い」「聞こえる人の方が上」という価値観に縛られて生きてきたのだろうか、、と思った。

 

 そしてそれによって、同じ立場の聞こえない人を見下したり馬鹿にしたりするのは悲しいことだ、と思った。

 

そして、まずは

「自分らしく生きるため」

「聞こえないことを受け入れるため」

「聞こえない人として生きるため」

に補聴器をやめようと決心した。

 

補聴器をやめてから起こった様々なこと

そしてだいたい20歳ごろに補聴器をやめたわけであるが・・・

実は意外と困らなかったように思う。

 

外出時

「外出時は補聴器がないと怖いのでは?」という人は多いと思う。

確かに、外出時に補聴器がないと車の音などが分からなくなり危ないかもしれない。

 

でも私の場合は、もともと補聴器があっても外出時は車の音や「どこから車が来るのか」などといったことを判別できなかったため、外出時は常にきょろきょろしたり周りに気を配ったりしていた。

それが身についていたため、補聴器を外してもあまり関係なかった。

そのため、そこまで「怖い」「不安」だという気持ちはなかった。

 

家庭内

補聴器を付けるのをやめた時、親にも一応お話はしたと思う。

「なんで?」と聞かれたが、その時は「つけても意味がないから」という風に話したように思う。

そこまでもめた覚えがないから、多分親もすんなりと納得してくれたのだろう。(不安はあったかもしれないが)

 

ただ、今思うと、補聴器は決して安い買い物ではないのに、私のために生まれた時から補聴器を購入してくれて、しかも、壊れたら買い替えたりもしてくれて・・

結構お金がかかったと思うのに、それを「つけても意味がない」という説明で済まされると親としては悲しかったかもしれない。

なので、もう少しきちんと説明したら良かったかな、と今は思う。

 

それは置いといて。

家庭内では、今までは親が私を呼ぶときは声で呼んでいた。

それもやめてもらったため、私が2階にいる時はわざわざ2階まで上がってもらうはめになった。

親にとっては凄く面倒だったかもしれないが、何も言わず合わせてくれたのでそれは感謝している。

 

心理的な面

 

もちろん、それまでは毎日聞いていた騒音がばたりとなくなったわけだから、落ち着かない部分もあったかもしれない。

だが、それよりもまず、「ラクになった」という気持ちの方が大きかった。

 

おそらく、「これでいいんだ」「これで自分らしく生きていけるんだ」という気持ちの方が大きかったからかもしれない。

 

補聴器をやめて気づいた変化

そして今は、補聴器をやめてから数十年になる。

それからの変化を振り返ってみたい。

 

「聞こえない自分」と向き合えた 

これまでは、「テレビの音が聞こえない」などということから「自分は聞こえないのだ」という事実は理解していた。

しかし、「聞こえる人のようになりたい」と思い聞こえる人のフリをしたりということがあった。

ということは、私は身体的には「聞こえない」ということは分かっていても、心の中では分かっていなかったのだ。

 

でも、補聴器を外して「本当に聞こえない環境に身を置いて、聞こえない人として生きていく!」と決めてからは、不思議と「聞こえる人のようになりたい」とは思わなくなったし、聞こえる人のふりをすることも少しずつなくなっていった。

 

これは聞こえる人へのあこがれ、依存から少しずつ離れていく自分を味わえたひと時だった。

 

手話と向き合うことができた

これまでも聞こえない友達がいて手話に触れる機会はあったが、それでも私は手話を使うことが恥ずかしい気持ちもあった。

実際、聾学校に通っている友達を道で見かけたら逃げたりすることもあった。

 

でも、補聴器をやめてからはそういうこともなくなり、手話と向き合うことができるようになった。

そして手話が楽しい!と思えるようになり、手話を使う自分が嬉しくなった。

 

音に頼らない方法を身につけた

もともと補聴器を付けてもあまり意味がなかったこともあり、音に頼らない生活はしていた。

しかし、補聴器を外してからはそれがより顕著になった。

 

例えば道を歩いている時は車が走っていない道でも必ず端っこを歩く、などである。

 

これは聴こえる人にもお勧めだと思う。

なぜなら、もし音に頼った生活をしていると、いざ音が壊れて聞こえなくなった時に戸惑うことも多いだろう。

例えばそのいい例がプリウスという車である。

プリウスは走っている時音がほとんど聞こえないらしい。それで急に後ろから走ってこられてビックリした!という声も多いと聞く。

でもそういう時でも、音に頼らない生活をしていると、最初から端っこを歩いたりして身を守ることができる。

そのため、いざ、プリウスのような車が走ってきても慌てずに済む。

 

また他にも、例えばたまたま洗濯機の音が出なかった時でも最初から「洗濯機を回してから40分後に洗濯機の様子を見に行く」ということを心がけていれば、「あれ?まだ洗濯機終わってないのかな?」と思って慌てずに済む。

 

とかくこの世には音があふれている。

だからこそ、音がなくなると困る人はとても多い。

でもそこに頼らない方法を身につけていれば、いざ、どんなことが起こっても慌てることはないだろう。

 

聞こえない人として生きる方法を身につけた

先ほども書いたが、「音に頼らない生活をする」ことも「きこえない人として生きる方法」の1つである。

また他には、「筆談する」ということも覚えた。

 

実は、それまでは「筆談」に強い抵抗があった。

筆談するということは、発音が出来ない自分を認めること、また、自分は聞こえないのだということを認めることにも繋がるため、できる限りはしたくなかったのである。

そのため、カフェなどに一人で入ったことがなかった。

 

でも、聞こえない人として生きる、と決めてからは筆談をすることを受け入れることができた

 

そして、カフェに入って注文する時は筆談、また、道を歩いていて分からないことがあれば近くを歩いている人に筆談で道を聞く、など・・・

 

そういったことができるようになった。

 

 

「聞こえない」という事実を受け入れるということ

「聞こえない」という事実を受け入れること。

それは、

「私は聞こえない・・・恥ずかしい・・・きこえる人みたいになりたい・・」

ということではなく、

「私は聞こえない、でもそれでいいのだ!それが私なのだ」

と思えるようになること。

これは、補聴器を外してからできたことでもある。

 

そして、私は聞こえない自分に対して前向きになれた。

私は聞こえない。

私は手話と筆談で生きる。

それでいいのだ。

 

そして、これが、きっとあの先輩が一番伝えたかったことなんだろうな、と思った。

 

そしてあれから数十年。

今も補聴器は付けていません。

でも、快適です。

まとめ

私にとって補聴器というのは、「聞こえる人へのあこがれ」であり、それ自体がアイデンティティとなってしまっていた。

でも、他の人の中には、補聴器を付けても聞こえないという状態であっても「補聴器をつけることで自分は耳が聞こえません、というのを周りに示すことができる」という理由で付ける人もいる。

きっとそういう人たちの方が多いだろう。私のような考え方で補聴器を外すという選択をした人は稀かもしれない。(もしかしたら結構いるかもしれないが)

 

ただ、それでも補聴器は大事という人もいるし、補聴器がないと困るという人もいる。そういう人たちのアイデンティティも大事にしたいと思う。

 

しかし、これだけはやめてほしいと思うことがある。

 

「補聴器を付けると、後ろから呼ぶときに楽だから付けてほしい」

「補聴器があれば少しは会話が楽になるから、付けてほしい」

 

というような「聞こえる人たちの勝手な都合」で本人に補聴器を付けることを強制する人たちも多い。

本人も承知していればいいのだが、本人が嫌がっているのに自分の都合で補聴器を付けることを押し付けるのは、その人のアイデンティティを無視することになる

 

「聞こえない人が聞こえる人に合わせる」ことが当たり前なのではない。

そろそろ、聞こえる人が聞こえない人に合わせていくことも考えてほしいと思う。

 

そりゃあ、聞こえない人の方が聞こえる人に合わせる方が聞こえる人にとっては楽かもしれない。

筆談しなくてもいいし、手話も覚えなくていい、聞こえない人の方が頑張って口を読み取って補聴器を使って必死で話を聞いてくれればいい・・

でも、それは酷というものだということは、分かってほしいなと思います。

 

私が補聴器を付けることをやめた理由 中編

 

私が補聴器を付けることをやめた理由

前編の続きです。

 

tellyou.hateblo.jp

 

このように、先輩から「君は自分のことを障害者と思ってるの?」と言われ、それから色々と考えました。

 

そしてこれまでのことを振り返ってみました。

 

アイデンティティとは

アイデンティティとは、簡単に言えば「これが自分」というものを示す何かであり、例えばそれが物でも良いし、趣味でも良いし、自分の考え方や暮らし方でも良い。

一般的には「自分の考え方の軸」を示すことが多いようだが。

  

人を妬み、人を見下してきた自分

これをもとに、私のアイデンティティについて色々と考えてみた。

その時にまず考えたのは、「私のアイデンティティはどこにあったのか?」ということ。

それを探すために、今までの自分を色々と振り返ってみた。

 

ずっと抱いてきた劣等感

 

生まれた時から耳が聞こえない人生を送ってきたわけだけど、振り返ってみれば耳が聞こえないということは私にとっては劣等感の連続だったと思う。

 

例えば、小学校時代は同級生に同じくきこえない人がいたのだが、その人は発音がとてもうまかった。

なのでいつも、その発音がうまい同級生と自分を比べて惨めな気持ちになった。

 

なぜ私はみんなと違うんだろう・・・

もし発音がもっとうまければ友達と色々おしゃべりできるのに・・

 

こういう気持ちがいつも常にあった。

 

劣等感から他人を見下すようになった

 

そして高校に進んだとき。

高校の時は私自身が「健常者と同じ高校に通っている!」という変なプライドがあった。

そのため、聾学校に通っている人を見下したりもしていた。

例えば聾学校の生徒を見かけると目をそらしたり隠れたり・・・

無意識的に、聾学校を低く見ていたのだろう。

 

 または、聾学校の生徒から「どこに通ってるの?」と聞かれて高校の名前を答えた時に

「すごい!頭いいんだねー」と言われて「フフン」と偉そうにしたり・・

優越感を隠すことはしなかった。

 

この時、劣等感は差別や見下しを生むこともあるんだな、と漠然と感じていた。

でもこういう行動をやめることはなかった。 

 

聞こえる人を演じていた自分

もう一つ、特に多かったのが、「聞こえる人のように演じる」ということ。

私はそもそも全く聞こえない。なので、人との会話は筆談または口話(大きく口を開けてもらい、その口を見て読み取ること)が必要だった。

 

そのため、補聴器をつけて耳で聞いて会話ができる人がカッコよく見えた。

やはりこの社会において声を出して人と話すということはとてもスムーズだったから出来るならその方がいい、という気持ちもありそれで憧れが強かったのだろう。

 

レストランで聞こえる人のふり

そんなある日、知らないろう者と初めて会ってレストランに行った。

そしてオーダーをし、店員さんに注文をした。

その時に私は自分のことをカッコよく見せようと思い、わざと補聴器をつけている耳を店員さんの方に向けて耳で聞いてるふりをした。

そして声は出さずに口パクで「ハイ分かりました」と言った。

 

 電話ができるふり

また、ある時は皆の前で電話ができるフリもしたことがあった。

当時、私は母親に対してだけ、電話をかけることができた。

(でも一方的にかけて一方的に話して切るだけ)

その時も知らないろう者たちがいる時にわざと目の前で公衆電話から家にいる母に電話をかけ、しゃべっているふりをしていた。

 

この2つのどちらも、その時にその場にいたろう者から「すごーい、聞こえるんだねー、話もできるんだね!」と言われた。

私は「それほどでもないよー」と言ったけど、その時だけ優越感に浸ることができた。

 

振り返ってみて、分かったこと

・・・と、今までの色々なことを振り返ってみて分かったことがある。

 

私はそれほど、聴者に憧れていて、聴者みたいになりたかったのだということ。

そして、「耳が聞こえない」ということが私にとって全てで、それが人を判断する基準になってしまっていたのである。

 

つまり、そこに「私」という個人は存在しなかったのだ。

そして私は、それほどまでに「耳が聞こえない」という自分に自信がなかったのだ。

 

どうしてそこまで聴者みたいになりたかったのか

では、どうしてそこまでして聴者みたいになりたかったのか?

答えは簡単である。

 

聞こえる人みたいになれと言われ育ってきたから

小さいころから、

 

「聞こえる人みたいにならないとだめ」

「発音がうまくならないと大変だよ」

「しゃべれないと友達もできない」

「聞こえる人に助けてもらえる人になりなさい」

 

・・ということを暗示のように常に先生など周りから言われ育ってきた。

親や祖父母は幸い、そこまでは言ってこなかったが、それでも、発音に対しては厳しくチェックしていたし、常に「聞こえる友達はいるのか」と心配してきていた。

 

そういう環境で育つと、どうしても「聞こえる人が上で、聞こえない人は下なのだ」とおのずと思うようになってしまう。

(そう思わない人もいるかもしれないが)

 

私もそうだった。

そのため、私の価値観の中に「聞こえる人が上」「聞こえる人が全て」「発音がうまくないと生きていけない」など。。そういったことが刷り込まれてしまっていた。

 

そのため、聞こえる人の真似をしたり、聾学校の人を見下したり、という自分が出来てしまったのである。

 

 社会全体が聞こえる人優位の社会だから

例えば何かをするにも電話、テレビも字幕がない、というような社会だとやはり「聞こえない=障害」ということになってしまう。

本来、聞こえないということは単なる身体的欠陥なだけであって、社会がそれをカバーできる環境(例えばテレビなら全ての番組に100%ついているなど)があれば、聞こえないことは障害だと感じることが少なくなる。

 

しかし、今の社会はまだまだそうではないため、聞こえないということはそれだけでも多くの壁を生み出す。

 

つまり、「聞こえないという身体的欠陥=障害」なのではなくて「社会が障害を作り出している」ということ。

要は、聞こえないという身体的欠陥のある人に聞こえないということで大変な思いをさせているのは他でもないこの社会なのだ、ということ。

 

例えばこういう話がある。

ある発達障害の子どもがいた。

その発達障害の子どもがアメリカで暮らしていた時は、障害を障害と感じることなく普通に暮らすことができていた、

しかし日本だと、発達障害というものが凄く大きな障害だと感じられてしまい子どもにとっては生きにくそうだった。

その子供はアメリカと日本とで何ら変わったところはないのに、である。

つまり環境次第では本人が障害を強く感じてしまうことがある、ということ。

 

そのため、周りの人も「聞こえる方が楽」と思ってしまい、それで「聞こえる人のようになりなさい」と言ってしまうのだろう。

 

このことからもまとめると、私自身のこれまでのアイデンティティは「聞こえない」ということに左右され、また、社会にも左右されていたことが分かった。

 

そして気づいた。

先輩が言っていたのはそういうことだったのかもしれない・・・と。

 

補聴器を外すのはそういう自分とサヨナラするため

そして私は、そういう自分と決別したいと思った。

聞こえないということに自分が振り回されている。

聞こえる人みたいになりたいと思っていた自分とサヨナラしたい。

 

そして、今後は本当の意味で聞こえない人として生きていきたい。

 

そのためには、何をしたらいいだろうか・・・

 

そう思った私、「そうだ、補聴器を外してみよう」と思った。

私が補聴器を付けることをやめた理由 前編

 

 

私は生まれつき、耳が聞こえない。

どのくらい聞こえないか?と言うと、補聴器をつけない状態だと全く聞こえない。

いわゆる重度難聴である。

たまに花火の音がわずかに聞こえるぐらい。それも、花火大会で前列に座った時のみ。

後列だと全く聞こえない。

または、誰かが耳に口を近づけて叫ぶと聞こえる、ぐらいかな。

ただしその「聞こえる」も色々あり、私の場合は「音が聞こえるな~」というぐらいでその音が何の音なのかは分からない。

 

でも、とりあえず補聴器を付ければ音は聞こえるし、また、医学的にも「残存聴力を生かすためには常に補聴器を付けていてください」とか医者から言われることが多い状態でなぜ、私は補聴器を付けないのか?を書いていきたい。

 

私が補聴器を付けることをやめた理由

もともと私は、実は20歳ごろまでは補聴器をつけていた。それも両耳、である。

 

補聴器を付けることの恩恵

私のような重度難聴が補聴器を付ける、ということは意味があるのか?と思う人も多いと思う。

しかし、少なからず意味はある。

 

電話が来たのが分かる

例えば「どこかから音がする」ということは分かるし、家にいても電話が鳴ってる音は分かる。

 

電話の音はいつも一定なので、「この音は電話の音だ」ということを覚えてしまえば、その後に電話の音を聞いても「あ、電話の音だ」と分かる。

(テレビの音も出ている状態で電話が鳴っている場合は分からないことも多い。

また、音がどこから聞こえてるのか、ということも分からない)

 

救急車やパトカーなどの音も分かる

上記と同じく、家にいても救急車やパトカーなど緊急車両の音がした場合は分かる。

 

これも、先ほどと同じように緊急車両の音はいつも一定しているからというのが大きい。

(遠くからの場合は難しい。家の前を通ったなど近くを走った場合のみ。

また、テレビの音も出ているなど騒がしい状態だと分からないことが多い)

 

この2つの恩恵は確かにあった。

ただし、これは静かな場所にいる時のみだったように思う。

なぜなら、補聴器は音をなんでも拾ってしまうため、外を歩くと車の音、周りの人の話し声、犬の鳴き声など・・とにかくいろいろな音が全て一気に耳に入ってくるからである。

更にそれを聞き分けることが難しいため、例え外を救急車が走っていても気づかないこともあった。

 

補聴器をやめた理由

そしてある日、私は補聴器をやめることを決めた。

これは単に、「意味がないから」「うるさいから」ではない。

むしろ、アイデンティティの問題によるものだった。

 

私のアイデンティティ

ここで、私のアイデンティティについて書いていきたい。

 

私のアイデンティティにはやはり「自分の耳が聞こえない」ということがつきまとう。

しかしそれでも、学生の頃に持っていたアイデンティティと補聴器を外してから今までの私のアイデンティティは違う。

 

学生の時の私のアイデンティティ

そして補聴器をつけていた頃は聞こえる人たちに囲まれて学校に通い授業を受けていた。

この時は聞こえる人たちに囲まれていることで否が応でも「私は聞こえないのだ」という現実を目の当たりにさせられた。

(ただし、幸い私が通った小、中、高とも聴覚障害に理解がある学校だったのでそこまで嫌なことはなかった)

 

また、同級生に耳が聞こえない人もいた。

この同級生は私と違って発音がうまかった。

そしてやはり発音が下手な人より上手い人の方に人は流れていくという現実を目の当たりにしたこともある。

それで発音が上手い同級生への妬みもあった。

 

なので、この頃の私は「聞こえる人みたいになりたい」「発音が上手かったら良かったのに」という、まさに「聞こえる人への憧れ」が強かったように思う。

 

「君は自分のことを障害者と思ってるの?」

そして短大に入学した。

その頃、同じ耳が聞こえない先輩から声をかけていただき、ある団体に入った。

その団体は、今で言う「近畿ろう学生懇談会」と言い、短大や大学、専門学校に通う聴覚障害学生を中心とした団体。

ほかにも手話を学ぶ聞こえる学生も多く入っており手話で交流などが行われていた。

 

この団体である先輩と出会った。

そしてある日。

何がきっかけかは忘れたが、この先輩から私は忘れられない一言を言われた。

 

「君は自分のことを障害者と思ってるの?」

 

 確かこの時は、私の今までの経験についてお話ししていたのかな。

その時に言われた言葉だったと思う。

 

私は「えっ」と聞き返した。

するとその先輩は続いてこう言った。

 

「障害者、耳が聞こえないという時点ではみんな障害者なのは確か。

だけど、受け止め方の問題なんだよね。

君の話を聞いてると、君は自分のことを「耳が聞こえなくてかわいそうな障害者」だと思ってるように見える。

それは違うんだよ。

あなたは耳が聞こえない、だけどそれはかわいそうでもない、恥ずかしいことでもない。

耳が聞こえないという自分に誇りを持って生きるべきだ」

 

私は押し黙ってしまった。

そして、本当にその通りだと思った。

 

私は、医学的には確かにれっきとした障害者である。

でもひとくちに「障害者」といってもそれを本人がどう受け止めているか、によって大きく違う。

 

「かわいそうな障害者」

「障害があることを受け入れて誇りを持って生きている障害者」

 

私の場合はまさしく前者だったのだ。

それを見事に見抜かれたということである。

 

そしてそれから私は色々考えた。